家のコト

五月女 寛さん「古家礼讃」

この「記事」が気に入ったらみんなにシェアしよう!

みんなにシェアしよう!

「築65年木造2階建て9部屋」。こんなチラシを不動産屋さんの掲示板で見つけ、「9部屋ってどんな屋敷だろう?」と、はやる気持ちを抑え興味津々で見に行くと、目の前には元下宿屋の古家があった。
昔ながらの家並みが残る豊島区雑司が谷の中にあっても、「古色蒼然の木塀に杉板張り」というひと際年季の入った構え。格子の引き戸を開けて室内に進むと中央に階段。それを囲むように襖で仕切られた小さな畳部屋が田の字に並ぶ。
檜風呂に木製の台所、漆喰の土壁に、裸電球。昭和そのままの光景にしばし呆然…。と、次の瞬間同行した不動産屋さんに「この家に決めます」と一言。即決だった。

私の古家好きは、幼少期に遡る。当時、祖母が荒川区西日暮里で米屋を営んでおり、私は母親に連れられ時折千葉から訪れていた。暗い土間に、煙草のヤニで黒くなった天井、傷だらけで角のとれた柱、急勾配のきしむ階段。隣人や親戚たちの賑やかな笑い声や豆腐屋のラッパの音色が聞こえてくる、レトロで人情深い下町に建つ古家。なんとも不思議な懐かしさと居心地の良さに、こんな古家に住む大人になった自分の姿に想いを馳せてにやにやする…、私はそんな、ちょっと変わった少年だった。

大学卒業後に独り立ちした際、幼い頃からの夢を実現すべく古家探しを開始した。縁あって祖母の家からほど近い荒川区東尾久のあばら家に棲むことに。都電荒川線がちんちんと元気に走る下町の一角、庭付き築45年木造2階建てだった。杉板張りの木肌がこげ茶色に際立つ趣きと「傾き」のある家。長い間空き家だったので傷みは著しく、壁と柱の隙間から月が拝める有様だった。修理に半年を要しながらもようやく引っ越しできた。
そこでの暮らしは、お風呂は壊れていたので、毎日近所の銭湯通い。昔ながらの商店街である尾久銀座も健在で、美味しいおかずには事欠かない。不自由はありながらも念願の下町暮らしを満喫していた。ところが2年経った初夏のある日、突如家じゅうが羽蟻だらけに…。よく見ると天井板の隙間から羽蟻(白蟻の成虫)が一気にあふれ出てくるではないか。ヒッチコックの映画さながらの惨状を目の当たりにし、これ以上この家に棲むのは危険と判断。泣く泣く引っ越した。

その後、巡りめぐって冒頭で記した雑司が谷の家にたどり着く。またも都電荒川線沿いという不思議な縁に運命を感じつつ、下町情緒残る静かな土地の古家に家族4人で棲むことになった。台風が来れば雨漏り、ネズミ(わが家ではミッキーさんと呼んでいる)との同居、毎年味わう冬の底冷えなど、幾度の試練を乗り越え、今年で早15年目だ。どこかを直せばどこかが壊れ、常に大工道具片手に暮らしている。
とはいえ、先人の知恵を活かしながらも、生活の変化に合わせて家の中を自由にアレンジできるのも古家の魅力だ。台所の床板は全て取り外し可能で夏も涼しい食品庫として重宝している。押入れは幼い姉妹の2段ベッドに変身。その場その場で知恵を絞り、形を変えて生活する。手を加えた分だけ愛着も増す。今年の冬も改装予定。大きな吹抜け部分に床を復活させ、成長した娘のために個室をつくる。

2015.01zuisou_2

筆者の陶芸作品。「白壁の家」

古家には物語がある。昭和初期に建てられたこの家は、戦火も免れ50年以上、下宿屋として存在した。1階の広間では早稲田の学生達が日ごとちゃぶ台でご飯を囲み、情に厚い人柄で親しまれたお相撲さんも間借りしていたのだとか。現在、私はこの古家の一角を工房に改装し作陶する毎日だ。作るものはもっぱら掌に乗るような小さな家。なぜ、家をつくるのか? 深く考えたことはないが、風を受け、雨を流す素朴な家の形に安らぎとぬくもり、そして物語を感じるからではないかと、何となく思っている。

今年でこの古家も80歳。まだまだ現役でわが家族を守り、物語を紡ぎ続けていってくれることを願っている。

2015.01zuisou_1

「黒い屋根の家」

 

陶芸作家
五月女 寛  さおとめ・ひろし
1969年千葉県生まれ、東京都豊島区雑司が谷在住。建築設計の仕事を経て、2005年より自宅兼工房にて製作開始。以後、個展・クラフトフェアを軸に家型のオブジェ、花器などの作品を発表。時間はかかるが、「手触り」「簡素さ」「ぬくもり」を大切にし、一つひとつ手びねりで作る方法を貫いている。
ブログ:http://kuushin.cocolog-nifty.com

月刊不動産流通2015年2月号掲載ƒ

この「記事」が気に入ったら
みんなにシェアしよう!

MATOME