街のコト

難波里奈さん「純喫茶の似合うまち」

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いわゆる「純喫茶」と呼ばれる昔ながらの喫茶店が好きで、夢中になってから十数年が経ちました。

きっかけは昭和の時代に着用されていた古着のワンピースの可愛らしさに惹かれたこと。レトロな魅力のとりこになり、次第に自分の身の回りにある雑貨や家具も、懐かしい形や色をしたものが増えていきました。そうして自分の部屋はあっという間に古めかしいものたちであふれ、家族の物置となっていた隣の部屋まで、私のコレクションが侵食していくようになりました。

それでも素敵な物との出会いをあきらめることができず、見かねた父が1階にある小さな倉庫のスペースをいくらか空けてくれましたが、そちらもどんどん昭和の色に…。

ある時、「こんな風に増えるばかりではきちんと愛情を持って大切にできていない」と改めて気付きました。そして、自分の物として収集する代わりに、「もう一つの自分の部屋」として、昭和の香りがする純喫茶へ足を運ぶようになったのです。

まずは近所の店へ、次は雑誌などで知った店へ、訪れる店は次第に増えていきます。マスターのこだわりが凝縮された店内は一つとして同じ内装のところはなく、私を夢中にさせました。扉に付いている凝ったドアノブ、ガラスの下に珈琲豆が敷き詰められたテーブル、年を経るごとに艶を増していく革張りの椅子、チューリップのような形をした赤いランプ…。純喫茶を巡れば、いつでも私の好きな世界にタイムトリップできるのです。

今ではレトロなワンピースを着るごとに、その日の気分にあった純喫茶へ出かけます。雨の日は2階の窓から外の景色を眺められる店へ、ゆっくり読書をしたい時はやわらかな照明が灯る地下の店へ、誰かと話したい気分の時はやさしいマスターのいるカウンター席がある店へ。

 

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西荻窪の純喫茶「DANTE」にて。ぼんやり座っていると気持ちがゆっくりとまるくなっていく珈琲色の空間

 

「…前にも来てくれたことがありますよね?」、ある日、何度か訪れていたとびきり美味しい珈琲を出してくれる居心地の良い店で、そんな言葉をかけられました。声のした方を見ると、カウンターの中の湯気の向こう側に、いつもは寡黙に佇んでいるマスターの笑顔が。「あ、はい。何度か…」、つられてこちらも笑顔になり、たわいもないやり取りが始まりました。そしていつしか自然に会話が途切れ、再び目の前のコーヒーカップに手を伸ばして一口。沈黙さえも心に浸み入るような、何ともいえない“まあるい”気持ちに包まれている自分に気が付きました。

そしてこのときから、会計時の「ごちそうさまでした」の後に、今までは心の中でだけ呟いていた「また来ます」という言葉が加わるように。

このように、ちょうど良い距離感と、受け入れてもらえたような安心感…お気に入りの純喫茶ができると、いつの間にかその店が似合うまちまで好きになってしまいます。そして訪れたまちでコーヒーの香りに包まれながら、職場までの通勤風景、駅前の賑やかさ、昔ながらの商店街の名残り、美味しそうな飲食店…頭の中で、まちで過ごす風景を思い浮かべます。そのうち「このまちで暮らしたい」、そう考えるように…。「少し歩いたところに小さな川があるといいな」「休日の朝が楽しみになるような焼きたてのパンが買える店がほしい」などなど、自分の暮らしたいまちを想像するのは、とても楽しい時間です。

そのまちに暮らしたくなる理由やきっかけは、人それぞれあるでしょう。私の場合は、こうして「一日の終わりに気持ちをまるくしてくれる場所」があることがその一つ。日々が楽しくなるための大切な条件である、と思っています。

 

東京喫茶店研究所所長
難波 里奈
日中は東京日本橋勤務の会社員、日暮れから東京喫茶店研究所2代目所長。東京生まれ・東京育ち。学生時代に、「昭和」の影響が色濃く残る家具・雑貨・洋服などに夢中になり、当時の文化遺産でもある純喫茶の空間を、日替わりの自分の部屋として楽しむようになる。その後も、東京を中心に全国の純喫茶を巡り、ブログ「純喫茶コレクション」(retrocoffee.blog15.fc2.com)に店内の様子や訪問時の記録を綴っている。2012年に初の著書『純喫茶コレクション』(PARCO出版)を、15年に2冊目の著書『純喫茶へ、1000軒』(アスペクト)を出版。16年夏に3冊目の著書を出版準備中。

月刊不動産流通2016年6月号掲載ƒ

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