「日本コロムビア」

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歌とともに「戦争」に向き合う  コロムビアの「戦後70年企画」

歌とともに「戦争」に向き合う  コロムビアの「戦後70年企画」

 戦後70年にあたる今年は、各地でさまざまな催しが予定されている。この70年間は、日本が敗戦から立ち直り、経済を発展させ、そして経済大国としてアジアを引っ張ってきた70年であり、その時代その時代には流行った歌がある。日本コロムビアは、改めて「戦争」について歌とともに振り返ってもらおうと、「戦後70年企画」として5つのアルバムを29日に発売する。戦後70年の歌のあゆみとして発売するのは「唱歌・叙情歌 〜ふるさと・この道〜」「こどものうた 〜とんがり帽子・みかんの花さく丘〜」「戦後の大ヒット大全集 〜リンゴの唄・青い山脈〜」「戦後のポピュラー大全集 〜ボタンとリボン・愛の讃歌〜」と「日本の軍歌大全集 〜若鷺の歌・海行かば〜」。価格は各3,000円(税別)。 「戦後70年企画」URL

今年「昭和90年」。昭和ニッポンの青春時代は 「歌謡ポップス」で盛り上がっていた

今年「昭和90年」。昭和ニッポンの青春時代は 「歌謡ポップス」で盛り上がっていた

 昭和でいうと、今年はちょうど90年になるという。そんな節目の年のせいか、当時の文化が見直される機会が増えている。昭和の音楽といえば歌謡曲。今なおCMに使われたり、カバーされたりすることで、歌謡曲に新鮮な魅力を感じる若い人も少なくない。 今よりエネルギッシュな時代だったといわれる昭和。そのころの音楽業界や、国民的なヒット曲が生まれたきっかけを「昭和90年」のいま、振り返ってみたい。 当時のヒット曲を集めたBOXセット「擦り切れるまで聴いた歌謡ポップス100」を企画した日本コロムビアの金子重雄さんに、話を聞いた。 ――若い読者も多いと思いますので、「歌謡ポップス」とは何か、企画の狙いはどこにあるのかをお話しいただけますか。『このBOXには、1960年代後半から70年代(昭和40年代〜50年代前半)にかけてラジオで流れたヒット曲が収録されていますが、ラジオ番組などでは昔から歌謡ポップスという言葉が使われていました。当時はいまでいう演歌調の歌謡曲以外に、もうちょっと若者向けの歌謡曲・ポップスが誕生した時期です。このBOXはアーティスト的には演歌・歌謡曲の範疇に入るような歌手の方から、フォーク、ニューミュージック寄りの方まで入っていますが、楽曲的にはどろどろの演歌は入ってなくて私のイメージではいまのJ−POPのルーツに近いですね。当時のヒット曲の幅広さ、懐の深さがそのまま表れていると思います』 ――本当にバラエティー豊かですが、「歌謡ポップス」が生まれた時代背景を教えて下さい。 『いわゆる団塊の世代が青年となった60年代後半は、世界中で若者パワーが炸裂しました。それまでの古い価値観や文化を否定するようなムーブメントが大きくうねった時代ですね。音楽面ではビートルズ来日(1964年)の後にGSブーム(「花の首飾り」「ブルー・シャトウ」)が起こり、そこから派生したGS歌謡(「恋の季節」「真赤な太陽」)がヒットしました。ただ、60年代〜70年代の歌謡ポップスとは、西欧先進国に追いついた気分になっていても、その実はまだまだ「古い日本」の殻を捨て切れなかった日本人の感性を反映したものだったと思いますよ。(編集部注:太字は本作収録曲) 歌詞的にいうと、女性が男性に付き従う「恋の奴隷」、都会に出ていった恋人を想う「木綿のハンカチーフ」、まるで旧制高校生のような「我が良き友よ」、恋人への手紙に涙をこぼす「わかって下さい」がまだ受け入れられていたし、ジャズやロック、ソウル的なアレンジであっても時折こぶしの回るような歌い方が混じっていました。 現在のように演歌は演歌、J-POPはJ-POPと明確にすみ分けしていなかったが故に、ミックスされた不思議な面白さがこの時代の音楽にはあると思います』――その頃のヒット曲は、子どもでもすぐおぼえて口ずさめるようなわかりやすさがありますが、どうやって生み出されていたんですか?『60年代は作詞家、作曲家はレコード会社専属でしたが、若者文化が台頭するにつれ、大学でジャズを演奏していた鈴木邦彦(天使の誘惑」「恋の奴隷」「北国行きで」)や村井邦彦(「経験」「虹と雪のバラード」)、レコード会社の洋楽ディレクターだった筒美京平(「ブルー・ライト・ヨコハマ」「また逢う日まで」「木綿のハンカチーフ」)のような作曲家、シャンソンの翻訳をしていたなかにし礼(「人形の家」「雨がやんだら」「愛のさざなみ」)、放送作家だった阿久悠(「時の過ぎ行くままに」「ジョニィへの伝言」「さらば涙と言おう」)のような作詞家など、若いフリーの作家が各社で書きまくり、新時代の音楽を創りだしていきました。 このBOXセットにはヒット曲が詰まっていますが、実はこの裏にはヒットしなかった曲が膨大にあったんです。レコード産業は非常に活気があったので、とにかく数打ってその中で一つ当たればみたいなところがあって、極端なことをいえば100のうち1曲当たれば99の外れは回収できると考えてたと思いますね』――日本コロムビアといえば、日本ビクターと並ぶ日本のレコード会社の草分けで老舗中の老舗です。昭和の一時期はレコード総売上の半分を2社で占めていたほど隆盛を極めていたと聞きますが、入社されてから印象に残っているエピソードを教えて下さい。『ちょうど私が入社したのは美空ひばりさんの晩年のころだったんですが、ある日ひばりさんのレコーディングが赤坂の本社の第1スタジオであったんですね。その日は、まず会社のエレベーターの前に赤じゅうたんを出して敷くんです。そこに会長と社長が立ってお出迎えですね。新入社員ではめったにお目にかかれない会長と社長がですよ。そこにストレッチリムジンの真っ白な高級外車が到着。エレベーターは他の人が乗らないように専用にして止めてあります。がっちり周りをガードしてスタジオにお連れして録音するんですね。ひばりさんの録音は粗相がないように前日から準備が大変だったと聞いています。だらしないのが嫌いな方ですから、ふだん汚い格好をしているエンジニアも、スーツにネクタイ。録音機材の接続プラグもすべて磨き直したみたいです。録音時も唄が完璧に頭に入っているので、最初からパーフェクト。テスト1回、本番1回の2回しか歌わないらしいので、バックのミュージシャンも絶対に間違えられないと気迫のみなぎる録音だったそうです』 ――さすが昭和のスーパースター。生ける伝説という感じですね。新人発掘などの面白い話はありますか?『吉田拓郎さんが、最初「コロムビアでデビューさせてくれ!」と本人から言ってきたというのは有名な話です。1967年、日本コロムビアはメジャーではいち早くフォークのアーティストを掘り起こそうとフォークソングコンテストを企画したんですね。拓郎さんは大阪大会で1位になったんですが、全国大会で優勝できなかったので、デビューさせてもらえなかったんです。大阪の営業所には本人が、どうしてもデビューさせてくれ!と何度も来られたという話が残っています。その後、ご存知のとおりエレック・レコードからデビューしてCBSソニー、フォーライフレコードでメジャーなアーティストになっていくわけですから、逃がした魚は大きかったなと(笑)。 ちなみに、このとき優勝したアーティスト(編集部注:ヴェークラント・クヮルテット)は僕も今すぐに名前を思い出せないぐらいで、全然売れなかったんですよ』――ヒット曲を生み出すのがいかに大変かわかりますよね。数々のヒットしなかった曲を踏み越えて、血と汗と涙から生み出されたヒット曲が100曲も収録されたこのBOXセットは背景にある歴史も考えながら聴くとまた新たな感動があるかもしれません。本日はありがとうございました。