街のコト

中田浩資さん「中国のカオス、上海」

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19歳のとき、人生で初めて訪れた海外のまちが上海だった。大阪を出港した国際客船は、ゆっくりと東シナ海を横断し、3日目の夕方、上海の港に接岸した。
初めて降り立つ異国の地が発する独特の匂いが忘れられない。香辛料と油と腐臭が混じったようなその匂いは、薄暗い道路をまちに向かって歩いていくにつれ、強く、濃くなっていった。道すがら、日本では見たことのないレンガ造りのアパートが軒を連ね、2階の窓から無造作に吊るされた洗濯物が道路のほうまでせり出していた。いつまでもつきまとう慣れない匂いと、異国のまち並みへの違和感は、次第に外国に来たのだという実感に変わり、これから始まる旅に、胸の高鳴りを覚えた。
目星をつけていたホテルは、想像していたアジアの安宿とは大きく異なるものだった。どっしりと構える建物外観は気品に満ち、明治や大正の洋館建築を思わせた。一歩中に入ると、広々としたロビーの高い天井にはレトロな照明が吊り下がり、長く入りくんだ廊下は不気味なほどに静かで暗く、ひんやりとした湿気に包まれていた。分厚い木製のドアを開けると、まるでモノクロ映画の一場面のようなレトロな空間が広がった。

1840年に勃発したアヘン戦争に大敗した清は、5つの港を開くことになる。そのうちのひとつが上海だった。同時に、もともと開国を迫っていた欧米列強の、上海進出が始まった。
列強諸国は上海の動脈である黄浦江の西側、「浦西」に租界を形成し、19世紀に入ると、「外灘(バンド)」と呼ばれる黄浦江沿いには西洋式の重厚で優美な建築が次々に建てられていった。今も残る外灘の洋館建築群は約1㎞におよび、圧倒的な存在感を誇る。
単焦点の標準レンズ1本しか持っていなかった貧乏学生の僕は、どうやってもファインダーに収まりきらない美しい建物が連なる景色を、ただただ眺めるしかなかった。川沿いから離れても「老洋房」と呼ばれる当時の洋館建築は至る所に残っており、僕が心を躍らせた洋館ホテルも、その一角にあったというわけである。
荘厳な建築物とは裏腹に、当時の外灘界隈にはあまり人気がなく、薄暗かった印象が強い。物乞いがたむろし、外灘から伸びるメインストリートの南京路は、今では広々とした歩行者天国になっているが、当時はまだ舗装すらされていなかった。巨大な建物の間からは冷たい風が吹き抜け、コートに首をすぼめる寂しげな西洋人の姿が外灘の風景に妙にマッチしていた。

それからたった数年で、上海のまちは大きく変わっていく。現在も上海のシンボルである東方明珠塔(テレビ塔)こそあったものの、そのほかはほとんど手つかずだった黄浦江の対岸「浦東」には、みるみるうちに最新の高層ビルが建ち始め、世界最高層レベルのビルも完成した。外灘の西洋建築群と同様、旅行パンフレットの表紙を飾る、上海の代表的な風景である。
時を同じくして、浦西エリアでは、築百年に迫る西洋建築をリノベーションした個性的なレストランやカフェ、ブティックが次々とオープンし始め、その勢いは経済成長が一段落したと言われる今も止まるところを知らない。毎年上海を訪れるたび、食、人、物の変わりようには驚くばかりである。

しかし、一方ではファッションに最も敏感な浦西の中心部を形成する老洋房のまち並みが、一世紀近く前からほとんど変わらないというのは、なんとも不思議なものである。
上海を訪れる際はいつも、特に目的を持たず旧租界エリアをブラブラするのが癖になっている。老洋房の中にある雰囲気たっぷりのバーで1杯2000円もするウイスキーソーダを飲むこともあれば、街角で元気に営業する小さな食堂で、100円ほどのラーメンをすすることもある。レンガ造りのアパートには未だ粋な上海人の生活があり、ふと路地に迷い込むと、上半身裸で将棋を指すおじいさんが笑顔で話しかけてくるのも、今も残るかつての上海の情景のひとつである。そして、ときおりあの懐かしい匂いが鼻腔をくすぐり、初めて歩いた異国のまちがよみがえるのである。
超現代的高層ビルの浦東、レトロモダン建築ファッション、老上海の風情。発展を遂げる中国のカオスがこのまちにある。
旅の記録を写真に収めることを、いつのまにか生業とするようになって十数年が経つ。未だに名所旧跡や絶景よりも、訪れたまちの古い建物や人の表情にその対象を求めるのは、人生初の海外渡航先が、古き良き上海だったからかもしれない。

 

フォトグラファー
中田 浩資
1975年、徳島市生まれ。97~99年の北京滞在中、ロイター通信北京支局にて報道写真に携わる。帰国後、会社員を経て2004年よりフリー。旅写真を中心に、雑誌、書籍等で活動中。共著に『鈍行列車のアジア旅』(双葉社)、『週末アジアでちょっと幸せ』(朝日新聞出版)、『ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行』(KADOKAWA)など。■公式サイト:http://www.nakata-photo.jp

月刊不動産流通2016年8月号掲載ƒ

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