日本人は世界一入浴好きな民族といっても過言ではない。なぜならば、日本の入浴文化は、単に体の汚れを落とすだけではなく、「浮世の垢も落とす」という重要な役割をもっているからではないだろうか。
1970年、『時間ですよ』という銭湯を舞台としたテレビドラマが始まった。下町の銭湯「松の湯」で、森 光子扮するおかみさんと従業員、お客さんたちとの人情話が好評だった。この時代は銭湯の数も多く、現在の約4倍、全国に1万7,000軒ほどが営業していた。かつて私が子供のころ、町内に1軒は営業していたわけで、どこもお客で、それこそ芋洗いの状態であった記憶がある。
さて、銭湯、すなわち入浴料を徴収することで商売となった風呂はいつごろ登場したのか。『今昔物語』の話の中に「東山へ湯浴みにと人を誘ひ」とあることから、すでに平安時代には京都に銭湯があった可能性がある。江戸においては、1591年(天正19年)、現存の日本橋の日本銀行本店近くにあった銭瓶橋のたもとが発祥の地とされている。ここの風呂が好評で、その後江戸中に広まったという。
その後の銭湯は、都市における庶民の生活においてなくてはならない施設として発展を遂げた。特に大都市での人口増が顕著となる戦後の高度経済成長期に入る手前の時期、郊外に多くの銭湯が登場するようになった。その発展の仕方がまた実に興味深いことに、農家が畑をつぶして、銭湯をつくったという。すなわち、まず銭湯ありき、なのである。しかも当時は内風呂のある住宅はまだ少なく、銭湯ができれば必然的にその付近に住宅も建つ。いわば門前町ならぬ湯前町とでもいおうか。
その後、高度経済成長期に入ると、一般家庭にも風呂場が普及し始め、残念ながら銭湯は減少してきた。全国銭湯組合の資料によれば現在、年に約300軒の銭湯が廃業している。

昭和33年築ながら、現在も営業中の東京都大田区の明神湯〈写真提供:町田 忍氏〉
ところがそんな状況である一方、近年は銭湯が再び注目されてきているのも事実である。若い経営者が代替わりして跡を継ぐために、従来とは違うタイプの銭湯が登場してきた。伝統的な様式にとらわれずに番台からフロント式へ、サウナやジェットバスに電気風呂、露天風呂など、新しい設備を採用。中には充実した食事を提供したり、ステージでフラダンスなどのショーをする銭湯まで出現している。当然のことながら、これらの銭湯はバリアフリーだ。
また、営業時間前の空いた時間を利用して、健康講座などを始める銭湯も出てきている。例えば葛飾区や足立区では、区から派遣された指導員が、健康を目的とした体操や歌、ダーツゲーム教室などを開催している。その他では落語やヨガの講座などさまざまな試みもあり、銭湯ならではの人が集まりやすい雰囲気や広い空間を大いに利用しているといえる。
まだまだ数は少ないが、日を決めてデイサービスの施設として利用している銭湯などもある。このように、銭湯とはいろいろな活用の可能性を秘めた施設といえる。
最近では、2020年の東京オリンピック・パラリンピックにむけ、外国人観光客誘致を目的とした取り組みの一環として、銭湯を積極的にアピールする動きも出てきた。特に羽田に近いエリアの組合は、銭湯を重要な地域資源として活用するべく、すでに入浴マナーが書かれた5ヵ国語のポスターも用意している。外国人の利用が進むことで、また新たな可能性も出てくるのだろう。これからどんな面白い銭湯が出てくるか、非常に楽しみである。
(一社)日本銭湯文化協会理事
町田 忍 まちだ・しのぶ
1950年東京都生まれ。和光大学人文学部芸術学科卒業。在学中、博物館学芸員資格取得実習に行った国立博物館で博物学に興味を抱く。卒業後、約1年半の警視庁警察官勤務を経て、庶民文化における見落とされがちな風俗意匠の研究を始める。各種パッケージ等の収集は小学校時代から継続しており、チョコレート、納豆ラベルは2,000枚超。主な著書に「戦時広告図鑑」(WAVE出版)、「納豆大全」(小学館)、「『入浴』はだかの風俗史」(講談社・共著)、「風呂屋の富士山」(ファラオ企画・共著)、「ザ・ジュース大図鑑」(扶桑社・共著)など。現在はエッセイスト、写真家、庶民文化研究家として活躍中。