暮らしのコト

荻田 泰永さん「帰る場所」

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2014年3月。北極海に面するカナダ最北端、北緯83度のディスカバリー岬から果てしなく北に広がる氷原を見つめていた。ここから北極点への単独行が始まる。心の奥底で沸き上がるような冒険心と、これから待ち受ける困難に対する恐怖心とが、自分の中で闘っていた。しかし、考えていても仕方ない、もう覚悟を決めて行くしかないのだ。

北極点までは800㎞。世界でも2人しか成功例のない「北極点無補給単独徒歩到達」に挑戦する私のことを、ある人は「無謀だ」と諭し、ある人は「頑張れ!」と応援してくれる。氷点下50度を下回る極寒の世界で、凍結した海氷上を2ヵ月かけて徒歩で北極点まで到達するという計画だ。命をつなぐための食料やキャンプ道具を搭載した100㎏を超えるソリを自分で引きながら、揺れ動く氷の上を進む。北極点の辺りでは水深4000mにも達する北極海に浮かぶ海氷の厚みは、平均しても2~3m程度である。海氷は常に動き回り、ぶつかり合って高さ10mを超える壁のような乱氷帯を作り出し、かと思えば引き合ってリードと呼ばれる河のような割れ目が進路を阻む。ソリを運搬しながら、ゆっくりとひたすら北を目指して進んでいく。

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食料やキャンプ道具を搭載した100kg超のソリを引きながら、ひたすら北を目指して進んでいく

そこに道はない。道どころか、陸もないのだ。一見するとずっと陸続きのようであるが、足下数メートル下は海だ。「ギシギシ、ミシミシ、バキバキ…」毎日テントを張って、寝袋で寝ていると、氷が動いて軋む音が耳につく。寝ている間に周囲の氷が動き、朝になると景色が変化していることすらあるし、夜のうちに数㎞は流されてしまう。

この北極点を目指した挑戦は、48日目での撤退を余儀なくされた。例年にない激しい乱氷と度重なるブリザードに足止めを受け、日数が足りなくなることが確定したことが最大の要因だった。2ヵ月足らずで15㎏ほども減量した体を引きずって、ピックアップのチャーター機によりカナダ最北の村に悔しさと共に戻った。そこでは、私の冒険行をサポートする事務局の仲間が待っていてくれた。これまで数年間、私の挑戦を支えてくれた仲間だ。資金調達から準備、実行に至るまでの苦楽を共にしてきた。撤退してきた私に無言で握手の手を差し出し、私も無言でそれに応えた。

村に一軒だけの宿に入ると、温かい食事が待っていた。48日間のキャンプ生活での質素な食事とは違い、人間的な温かみをまとった食事だった。痩せこけた体は栄養を欲している。がっつくように皿の上の肉や野菜を胃に収めていくと、知らないうちに頬を涙が伝っていた。その瞬間、初めて自分が極限まで張りつめながら海氷上を歩いていたことを知り、この旅人を迎え入れてくれる安全な場所があることのありがたさを感じた。それから数日間は、本能に任せるように食べられるだけ食べ続け、体を休めた。  思えば、これまで10回以上の北極行の中でも、それぞれ「帰る場所」に辿り着く安堵感があった。冒険中の自分のミスから事故に遭い、命からがら救助されたときには、その場所に帰れたこと、生きていることのありがたさを心の底から覚え、号泣しながら味の分からない食事を頬張っていた。北極での経験は、その度に私に新しい世界の存在を知らせてくれる。

北極点への挑戦から帰国すると、そこには居心地のよい家と共に家族が待っていた。一歳になった息子は3ヵ月見ないうちに歩き出していた。家族と共に過ごせる家という空間、そこにあふれる子供の無邪気な笑顔は疲弊した自分の気力を再び充実させていく。

冒険に向かう気力を得て、前回の反省点を改善し、16年3月、私は再び北極点無補給単独徒歩到達に挑戦する予定だ。命がけの冒険が待ち受ける北極もまた、自分にとって「帰る場所」のひとつなのかもしれない。

 

北極冒険家
荻田 泰永 おぎた・やすなが
1977年神奈川県生まれ。2000年より北極圏での徒歩による冒険行を中心に活動。15年間で13回の北極行を経験し、8,000km以上を旅してきた。グリーンランド2,000km内陸氷床犬ぞり縦断、カナダ北極圏1,600km徒歩行、北磁極700km単独徒歩行など。現在は北極冒険の最難関である北極点無補給単独徒歩到達(世界3人目、日本人初)に挑戦中。著書に『北極男』(講談社)。ホームページ :http://www.ogita-exp.com

月刊不動産流通2015年1月号掲載ƒ

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