テーマ:お隣さん

物書きの隣人

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読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「電気、ガス、水道が通っている。机が一つ置いてある。ものを書くのに他に何が要ると言うんだ。充分な環境だ」
先生はキッパリと答えた。
「もっと快適な暮らしが出来てもですか?」
「今のままで充分快適なのだよ。小説を書いて暮らす。その一点が満たされていれば、それ以上何も望むものはないよ」
「そ、そうなんですか」
僕は大先生のお言葉に魂が震えた。感動すら超えた感情に身を焦がした。これが、『作家』というものかと。途端に先生から後光が射してくるのが見え、思わず手を挙げ地面にひれ伏し「ありがたや」と拝みそうになったが、同時に自分の小物感を思い知らされた。物語を綴ること、それこそが小説家にとって唯一無二の、至上の喜びではないか。僕は物質的な豊かさや幸福の話ばかりして、物書きとして一番大切な事を忘れてしまっていた。小説を書くというのは、楽しいことである筈なのだ。僕は賞の結果ばかり追いかけて、純粋に楽しいという気持ちを置き去りにしていた。筆者自身が楽しんでいなくて、どうして読者を楽しませる話を書けようか。今一度、初心に帰る必要があるだろう。
「それにしても、やはり君たちのような若い感性を持った人の作品は、読んでいて気持ちが良いよ。私が同じように書こうとしても、真似はできない。若さゆえの特権だ」
先生は顔を綻ばせて言った。先生が笑顔になったことで少し空気が和らぎ、話しやすそうになった。僕は先生の住処の話などよりも寧ろ一番気になって聞きたかったことを、先生に聞くことにした。
「先生――、僕の作品のことなんですけど」
今まさに僕の目の前に、プロットや構想を練るのに二ヶ月、文章にして初稿を上げるのに二ヶ月、改稿に一ヶ月強かけてようやく完成させた僕の自信満々作を審査し、そして「don’t mind!」の一言と共に落選させた人の皮を被った大先生ならぬ大悪魔が僕が座るはずだったVIP席の上でふんぞり返っている。今こそ、この大悪魔めに怒りの鉄槌を下す千載一遇のチャンスと言いたいのもやまやまだが、自作に対するアドバイスを本人を前に直接してもらえることのほうが千載一遇、いや、万載一遇のチャンスだ。これを今聞かざるして何を聞く。
「読んだ作品はだいたい頭に残っている。選考には長い時間をかけて、何度も話し合いを重ねたからね。今回選出されなかったものも、落とすのが惜しいものが幾つかあった。どれ、君の作品のタイトルを教えてくれるかい?」

物書きの隣人

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