テーマ:ご当地物語 / 青森市

忘れ雪

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 菜穂子が右手の手袋を取って、何かを投げる仕草をした。テープだ。菜穂子の投げた白い別れのテープは、風に逆らい、放物線を描きながら、奇跡的に大橋の足元に落ちた。大橋はテープを拾い上げ、ほらここに、と菜穂子に向かってテープを高々と掲げた。大橋のその仕草を確認して、菜穂子は握っているテープに、何かを書き始めた。
「ボーーーーーーー」
 長声一発。
 どこかで「八甲田丸、れっこー」と声がする。船が岸を離れた。
 菜穂子の口がわずかに動いた。大橋には、その声は聞こえなくとも、「さよなら」と言っているのがよく分かった。
撓んでいたテープが、張り詰めて切れる直前に、菜穂子はテープから手を離した。折からの強風に煽られ、テープの帯が宙を舞う。大橋は、慌ててそれを手繰り寄せた。菜穂子の文字がそこにあった。
「あなたの事をずっと大切に思っていました。私が助からなくても、それは運命。あなたは、何があっても生き抜いてね」
 船が遠ざかっていく。菜穂子が遠ざかっていく。鉛色の雲に吸い込まれていくかのように、菜穂子の船だけが小さくなっていく。大勢の乗客の中で、菜穂子の振る手の白さだけが目に刺さった。
 菜穂子は何故、六十歳近い俺が来ることを予期していたのか。彼女は、その後の過酷な運命を知っていたというのか。
 船が見えなくなっても、大橋は桟橋に立ち尽くしていた。その後、どこをどう歩いたのか、記憶がない。再び、辺りが真っ白になったことで吹雪の中を歩いているのだと知った。自分がどこにいるのか、全く分からない。意識が遠のいていく。

「ごめん、起こしちゃったかな。僕の用事は済んだよ」
 小山内の事務所だった。小山内が穏やかに笑い掛けている。何ということだ。応接室のソファーにもたれて寝ていたというのか。
「俺、ここにずっといたのかな。町の中を散歩していた筈なんだが」
「おいおい、変なことを言うなよ。君は疲れたから寝ると言って、ここで休んでいたじゃないか。この部屋からは、僕のデスクの前を通らないと外に出られないぜ」
……俺は夢を見ていただけなんだろうか。
「さあ、そろそろ飯にしようか。上に準備してあるから」
 小山内に促されて身支度を、と思ったが、バッグが見当たらない。そうだ、バッグは昭和の世界に置き忘れてきたんだっけ。
「あのなあ、小山内」
と、大橋は自分が体験したことを全て小山内に説明した。小山内は、何度もウン、ウンと言った後、何という店かと訊ねてきた。『道連れ』だと答えると、小山内は大きなため息を洩らした。

忘れ雪

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