テーマ:ご当地物語 / 青森市

忘れ雪

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 どこに行こうという当てなどなかった。
大橋隆信は、ため息をついた。よくある話ではあったが、会社の倒産を、その朝出社して初めて知った。間もなく定年、というところで、大橋は職を失うことになった。わずかばかりの退職金のようなものを受け取り、それで会社との関係は切れた。時に土下座までして、仕事を探したが、六十歳に近い男の再就職先は、簡単に見つかるはずもなかった。破滅が足音を立てて近づいていた。自分が何故このような目に遭わなければならないのか、よく分からなかった。これまで、誠実に人生を歩いてきたつもりであったが、もはや未来に対して抱いていた夢も希望も儚いものとなりつつあった。
大橋は肉親との縁が薄く、親兄弟はすでに他界し、また、自らに子供もいなかったため、身内と言えるのは、妻の史子ただ一人だった。しかし、今にして思えば、みじめな姿を曝さずに済んで、かえってよかったのかもしれないと思った。
いつかは彼女にいい思いをさせようと、そのためだけにつらい仕事にも耐えてきたが、結果として史子の人生を台無しにしてしまった。そんな自分の情けなさに打ちのめされた。
お互いへの思いが強かった分、些細な行き違いで争いが続いた。話せば話すほど、こじれた。今や家庭は、完全に崩壊した。いつしか二人の間で、会話は全く途絶えた。
大橋は、自分の当面の生活費を除き、それ以外の現金を全て史子の口座に送金し、独り家を出た。そして、役所で入手した離婚届に記名・捺印して送った。
 大橋は安宿を転々と渡り歩いたが、その間、まだ将来への希望に満ちていた学生時代のことばかり、思い出していた。相変わらず、職は見つからず、手元の金が底をつくのは時間の問題だった。生活は荒んだ。全てを失い、もはや守るべきものは何もなくなっていた。どこでもいいから、知り合いのいないところに行きたかった。このまま東京に留まっている理由はない。
……そうだ、北へ行こう。
これまでの会社員人生で、東京と西日本を往復する生活が長かったため、無性に「北」に焦がれていた。
……そういえば、菜穂子の生まれ故郷が青森だったっけ。
 大学時代に大橋が好きだったその女性は、神菜穂子と言った。神という字面を見て、ジン、と読める者は、大橋の周囲では殆どいなかった。青森ではよく見掛けるものではあっても、関東では珍しい名字であった。仲間は皆、親しみを込めて菜穂子を「カミさま」と呼んだ。菜穂子も自分に好意を抱いていることは分かっていながら、臆病者同士の恋は、結局実らないまま終わった。

忘れ雪

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