テーマ:ご当地物語 / 青森市

忘れ雪

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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……違う。俺が家を出たのは、三月七日だ。
 何か、自分の周りで大変なことが起きている。
「えーと、今年は何年でしたっけ」
「いやですよ。昭和六十三年じゃありませんか」
 大橋には、これは現実なのかどうか、全く理解できなかった。昭和の世界に迷い込んでしまったというのだろうか。
「女将さん。昨日仰っていた連絡船とは、青函連絡船のことですか」
「どうされたんですか、一体。青函連絡船ですよ。今日で連絡船がなくなるのです」
……何ということだ。女将の言っていることは真実なのか。俺が今感じていることを、女将に告げるべきか。いや、言えない。平成の世から来たなどとは、絶対に言えない。何を言っても理解できるわけがない。
「いやあ、寝ている間に変な夢を見ていたものだから。新聞はありますか」
「済みません、新聞も止めてしまって」
「ああ、そこの雑誌で結構です。ちょっと見せて下さい」
 週刊誌の発行日も、内容も、間違いなく今日が昭和六十三年であることを告げている。もうそろそろ、店を出る時だと思った。
「女将さん、すっかり長居して申し訳ありません。久し振りにいいお店に巡り会いました」
「お疲れのご様子ですね。お加減が良くなるまで、いて戴いて構いませんよ。何かのご縁ですし」
「これでお別れも寂しい限りですが……あの、名刺を戴けませんか」
「名刺も、もう……私は、こういう者なんですが」
 女将は壁に架かった調理師免許を指差した。『神加世子』とある。大橋は、目を剥いた。
「……これはジンさんとお読みするのですよね」
 女将は、大橋の大声に驚き、黙って頷いた。
全身が震えた。こんなことがあるのか。目に見えない、何か大きな力が、自分と菜穂子を引き合わせようとしている。
「あのう……お嬢さんのお名前は、菜穂子さんと仰るのではないですか」
 今度は、女将が目を剥いた。
「……あなたは……どういうお方なんですか。何故、娘をご存じなのですか」
 その質問には答えず、
「私は、大橋といいます。私がどういう人間かは、お嬢さんにお会いになったときゆっくりお聞き下さい」
 とだけ返答した。
「女将さん、最後の連絡船というのは何時発ですか」
 女将は、大橋の切羽詰まった様子に押されながら呟く。
「二十三便。七時三十分発」
「今何時ですか」
「六時五十五分」
 時間が迫っている。菜穂子は、北海道に渡って、そこで短い生涯を終えるのだ。今から出ても、もう会えないかもしれない。しかし、何としても菜穂子を助けなければ、との思いが大橋を貫いた。

忘れ雪

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