忘れ雪
二人で顔を見合わせ、声を立てて笑った。酒にあまり強くない大橋にしては珍しく、地元料理を味わいながら、杯を重ねた。女将と話し込んでいるうちに、次第に眠くなってきた。
……小山内は、俺が妙なことをしないかと、気を揉んでいた。今頃、さぞかし心配しているだろうなあ。
と、それが気になる。
「最後の日に来ていただいたのも何かのご縁ですから、どうかゆっくりしていって下さいな」
ふと、自分の境遇を思い返した。人生に疲れ、人生に破れ、家族とも別れ別れになり、半ば自暴自棄になって家を出た。それが今、青森駅近くの裏通りで、こうして穏やかに酒を飲んでいる。何とも不思議な心持ちがした。
しかし同時に、史子にはろくに連絡もせず、昔好きだった人の想い出を拾い歩いている自分は、屑だとも思った。
……疲れた。
カウンターに片肘を突いて、手酌で飲む。外で、汽笛の音が聞こえたような気がした。女将の声遠くから聞こえてくる。
「あら、一便の出航。もうこんな時間なんですね」
「こんな時間って?」
いかん。呂律が怪しくなってきた。
「零時半」
……この人は何を言っているのか。少し前に店に入ったばかりじゃないか。それに、出航って何だ。
「私は札幌の生まれなんです。店を畳んで、故郷に帰るんですよ。明日、最終の連絡船で、娘が一足先に北海道に渡ります。親子で一からやり直し」
「女将さん、何でそんなこと……」
意識が遠のいていく。うまく喋れない。やっと薄目を開けると、カウンターの端にあった卓上カレンダーが目に入った。昭和六十三年とある。
……随分古いカレンダーが残っているんだなあ。いったい、この店はどうなっているんだ。
大橋は、そのまま眠りに落ちた。
どの位の間そうしていただろうか。
「……ですか」
と、肩に掌の感触を覚えて、大橋は目を覚ました。自分がどこにいるのか、直ぐには把握できなかったが、女将の顔を見て、我に返った。
「大丈夫ですか。うなされていましたよ」
「……あのまま寝てしまったんですね。失礼しました」
「いいんですよ。お茶でも差し上げましょう」
昨晩、女将が言っていたことが蘇る。酔ってはいたが、会話の中身はよく覚えている。
……そういえば、「あら、もうこんな時間」と言っていたなあ。最後の連絡船とも。
表は仄かに明るい。壁の時計は六時半を指している。自分の腕時計を見ると、深夜零時半。
……変だ!
「女将さん、今日は何日でしたっけ」
「三月十三日ですよ」
忘れ雪