テーマ:ご当地物語 / 鎌倉

あなたのいる町

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 視覚情報量は五感情報全体の八割だという。いわゆる外見に対する好悪はここからくるのだろう。それを取り除かれたネットの世界で惹かれるということは、その人物の本質に惹かれているといえるのではないだろうか。
 そんなこじつけをしてしまうほど、私は『君に会う街』の樹の向こうにいるダイキさんに興味を抱いていた。それは樹に好意を抱く鈴音の心情を越えて、鈴音の背後にいるはずの私自身の心だった。もはや『あなたのいる町』の鈴音は私――鈴花の代弁者だった。
 私の心とそこに浮かぶ映像は、一旦粉々に砕け散り、文字となり電子の波にそっと乗せられる。あの人の岸に寄せる波となるように。掬い上げられて再び形をなすように。祈りつつ私は綴る。

 『あなたのいる町』で鈴音はギャラリーカフェ縁でソイラテを飲みながら、今しがたレジ横の展示スペースで購入した鎌倉ガイドブックを読む。挿絵はすべて写真ではなく水彩画だ。これもまた若手アーティストの作品だった。市販のガイドブックには載っていない、作者の好みに沿ったスポットが紹介されていて、そんな偏った情報が面白い。

『君に会う街』で樹はガイドブックを読む鈴音にソイラテを運びながら、なんの気なしにそのページに視線を走らせる。葛原岡神社が紹介されていた。葛原岡神社は鎌倉幕府倒幕に尽力した日野俊基を「開運の神様」「学問の神様」としてまつる神社で、また、二宮尊徳の家の楠で彫られたという大黒様の像があり、縁結びの神社でもあると記されている。
「この神社なら、ここからだと四十分くらいですね」
 樹の声に鈴音はハッと顔を上げる。注文や会計以外の言葉を交わしたのは初めてだった。
「山道ですか?」
「そうですね、一応ハイキングコースです。普通のスニーカーで歩けますよ。僕もたまに行きます」
 樹はそこまで言ってから、「あ、どうでもいいですよね」と笑った。

 鈴音を葛原岡神社に行かせるべきだろう。そう思ったが、私はその神社を知らなかった。情景描写をするためには、実際に行ってみる必要がある。実在の場所を描く場合、ネットや本では補いきれない。空気や音や匂い。そう言ったものは平面画像からは伝わってこない。それに――と、私は思う。ダイキさんに呼ばれているような気がした――などと言ったら、大袈裟だろうか。

 そんなことを考えている時にパソコンがフリーズし、執筆を続けられなくなったのだった。

     *

 北鎌倉駅の前を走る鎌倉街道を鎌倉方面へと進む。踏切の手前のレトロな円柱形ポストの角を右折する。浄智寺までアスファルトの坂が続く。そして急に山道が現れる。木漏れ日が美しいその道を踏みしめながら先を目指す。

あなたのいる町

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