テーマ:ご当地物語 / 鎌倉

あなたのいる町

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 次に私は自分が取っていない行動を鈴音にさせることにした。
北鎌倉駅で横須賀線を降り、線路沿いの路地をゆく。しばらくして左に折れると小さな川が流れていて、それに沿って山の方へと向かっていく。左手には川のほとりに並ぶ民家に混じって茶屋などがあったりする。右手は山の斜面が迫っていて、シダや紫陽花の株などがひんやりとした湿り気を漂わせている。日差しの弱いその道を突き当りまで進むと紫陽花寺として有名な明月院に行き着く。紫陽花の満開時期には線路付近までの大行列ができる日もあるが、今はもうほとんどの紫陽花が花を落としていて、ひと気もまばらだ。もちろん紫陽花の時期は圧巻だが、鈴音はこのお寺のひっそりとした風情が気に入っている。広くはないが起伏のある境内の小路の両側から紫陽花の葉が迫り、人の姿など緑の葉の中に埋もれてしまう。鈴音はしっとりとした雰囲気と空気を堪能して門を出た。
 その後は鎌倉街道伝いに鶴岡八幡宮まで歩き、小さな稲荷社のある裏の入口から境内に入り、本宮、舞殿と通常の参拝順路とは逆に辿って大鳥居を抜けた。帰りは鎌倉駅から横須賀線に乗車する。そんな一日を描いてみた。

 はたして『君に会う街』では樹が明月院で鈴音の姿を見かけている描写があった。これでダイキさんが私の『あなたのいる町』の読者であることは間違いない。でもなぜリンクさせているのかが謎だ。
 私は少し大胆な行動に出ることにした。鈴音が恋心を抱く男性を樹に重ねていこう。あちらが先にリンクさせてきたのだから失礼にはならないだろう。
鈴音と樹は互いに淡い恋心を抱き始める。
 いつしか二つの小説は男女それぞれの視点で描かれた一つの物語の様相を帯びてきた。

 小説投稿サイト上に並ぶ膨大な作品――しかもコンタクトを取る手段がない中で、お互いの作品を読み合うという偶然はどのくらいの確率なのだろう。そしてその作品に、その登場人物に好意を抱くのはどのくらいの確率なのだろう。
 ネットの世界はまるでパラレルワールドのようだと思う。画面越しで、文字だけで、そこに生身の人間がいることを感じる。それはもしかしたら作られた偽物なのかもしれない。けれども悪意ある偽物でない限り、それを作り上げた誰かの気配は必ず現れる。ただの読者だった頃にもそれは感じていた。作風と呼ぶには曖昧なもの。自分でも小説を書くようになると、他人のそれは一層色濃く感じられるようになってきた。現実世界で他人の表情や口調から感じ取るなにかと同じようなものが、文字の連なりからも感じられるのだ。

あなたのいる町

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