テーマ:一人暮らし

まぶたの裏のトワイライトゾーン

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 廊下のふちに身を乗り出し、遠くを見つめてみる。いい天気だった。幾重にも重なる屋根の上にはどこまでも青い空が広がっており、そのずっと先に、少しだけ、海が見えた。波は、日の光を受けて、きらきらと輝いている。それは、わずかながらも、きっとどこかに希望があることを思わせた。
 (これが、きみの憧れていた世界だよ)
 目を閉じて、ぼくはダイオウイカを思い浮かべながら呼びかけた。
 (捨てたもんじゃないだろ)
 あの大きなやさしい目が、ゆっくりと、まばたきをしたような気がした。
 「散歩にいこうかな」
 誰にともなく、つぶやいてみる。
 この世界を、もう少しよく見てみたくなったんだ。カフェでサンドイッチでも食べよう。それで、店員さんに、「ありがとう」とか、「いい天気ですね」とか言ってみよう。うまくほほえむことができるだろうか。ぼくは口角を動かしながら、顔を洗いに部屋へ戻った。

 あれから、なんども目を閉じてはトワイライトゾーンを思い浮かべてみたのだけれど、まぶたの裏にダイオウイカが現れることは、もう、なかった。ぼくがトワイライトゾーンを抜け出したように、ダイオウイカも、光の方へ向かっていったのだろうか。もしそうだったら、その先にある世界が、どうか幸せでありますように、と願ってやまなかった。
 復職してから、ぼくは働き方を変えた。それは、同僚の紹介で知り合った妻のためでも、もうじき生まれてくる子供のためでもあった。今日は金曜日だ。土曜日は寝坊して、近所のカフェでブランチにするのが、ぼくと妻との楽しみだった。おだやかな光の中で、彼女はいっそう可愛らしくサンドイッチをほおばり、カップの中の紅茶は、まるであの時アパートの廊下から見つめた海のように、きらきらと輝いている。
 今日は早めに帰ろう、と心に決めて、朝の通勤電車を待っていた、その時だった。
 (……さん)
 かすかな声が耳元でした。振り向こうとすると、
 (だめ。振り向いちゃ)
 声はあわててそれを制す。ぼくは前の人の後ろ頭を見つめたまま、小声でささやいた。
 「きみかい?」
 声はだまっている。
 「きみだろ。ダイオウイカだろ?」
 しばしの沈黙のあと、
 (はい)
 と短くダイオウイカは答えた。
 (あなた探すの、大変でした。とても。姿が見えなかったから。でも、やっと見つけました。一言、お礼言いたくて)
 「お礼?」
 ダイオウイカの声はあいかわらずはかなげで、ホームの雑踏にかき消されてしまいそうだった。ぼくは以前のように、懸命に耳を澄ました。

まぶたの裏のトワイライトゾーン

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