テーマ:ご当地物語 / 金沢

予感のゆくえ

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 なんの因果かご褒美か、大好きな着物を着ての仕事がしたいという願いが叶って、毎日着物に身を包む可奈子。着物姿がすっかり日常になっても、襦袢の紐をきゅっときつく結ぶときは、身も心も引き締まるから、可奈子にとって、着付けは一つの厳粛な儀式。
着付けには厳しかったお桂さん、相も変わらず元気かなぁ、と思うと同時に、目覚まし時計がピピピと音を立て始めた。可奈子は大概、目覚まし時計より先に目を覚ます。
「今日は、金沢に来て初めて買った、薄紫色の着物にしよう……」ふっと咄嗟に思いつきながら、可奈子は目覚まし時計のアラームを止めた。

「雇われ女将いうのを、どう思われますか?」
二年前、相沢氏からそう切り出されたとき、可奈子の胸は波打った。いつの日か自分のお店を持ちたいと思い始めた矢先の事。その胸の内を見透かされてしまったような気がしたのだった。とはいえ、それは夢というよりも遠い憧れ。自分一人の力ではどうしようもできないことを、自分が一番知っていた。
 だから、気の持ちようで自分のお店気分が味わえる、雇われ女将というのも何となく素敵だと内心ふっと思ったのだけれど……あえて口にはしなかった。
 大阪市内や近郊で幾つかの葬儀場を営んでいる相沢氏は、可奈子がお世話になっている中陣の常連さんで、その日のお昼は珍しく一人でご来店。「我がまま言いますが、お座敷、空いてますやろか?」の希望にそって、氏を沙羅の間にお通しした可奈子が、そのままその部屋の担当となった。といっても、平日お昼のお座敷は、団体でも入らない限り可奈子か芳江さんで対応していたので、この日が特別というわけでもなかった。
 特別だったといえば、この日の相沢氏がいつになく饒舌だったということ。食前酒、口取り、吸物変わり……。相沢氏の食事のペースに合わせて料理を運んでいく可奈子に、氏は、いつになく何かと話しかけてきた。
 そのどれもが答えに困らないフワフワとした問いかけで、もうすぐ還暦を迎えるという相沢氏の年期の入っただみ声にもつられて、可奈子の方も、素直な答えがポンポンポン。
 そんな弾むような会話も終盤となる、水物と煎茶を出し終えた丁度その時、可奈子は相沢氏から、こう話をもちかけられた。
「金沢で暮らしてみる気はありませんか?」と。

 まさに、降って湧いたような話だった。
 相沢氏の経営する葬儀屋の支店が金沢にあって、そこでは今度、持ち主のいなくなった料亭を会社名義で買い取ったのだという。

予感のゆくえ

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