予感のゆくえ
その日の朝、可奈子はとても穏やかな気持ちで目が覚めた。
それはきっと、窓の外から聞こえてくる柔らかな雨音の作用。
物心ついた時から、朝に降る柔らかな雨の音色に心弾んだ。
そしてもし、自分に予期せぬ出来事が起きるとしたら、こんなふうに目覚めた朝の一日ではないかと、可奈子は何故だか予感している。
自分がこうして、縁もゆかりもない北陸の古都金沢で二回目の春を迎えていること自体がもう、予期せぬ出来事であるのだけれど――。
思い当たる節が無いわけでもないと、枕の上で可奈子は夢うつつに考える。
十六年前、初めてのボーナスで友達と二人、この街を旅した時のこと。街路樹の緑が映える香林坊の歩道や武家屋敷の石畳を歩きながら、自分はこの街が好きだと強く感じた、あの感覚。あれは、ある意味一つの予感だったのではないだろうかと。
まさか本当に金沢で暮らすことになるなんて夢にも思わなかったけれど、それは誰しも同じことで、その時一緒に旅した友達は、現在、一男一女の母親となり、遠く離れた北海道で暮らしている。
「ただ私の場合、流れるように金沢に辿り着いたから」と、可奈子は頭の中で独り呟き、
どこが自分の分岐点だったのかと、我が身の流浪を、他人事みたいに振り返ってみる。
生まれ育った故郷を離れ、大阪の短大に行った時?卒業後、そのまま大阪の食品会社に就職した時?藤井可奈子から大竹可奈子になった時?藤井可奈子に戻った時?
どれもこれも大きな分岐点のようであり、最初からこうなるように出来ていた気もする。
美しい山陰の街を離れたことも、大阪で大竹と出会ったことも、子供を授からなかったことも、全てが全て、こうなるためのプロローグ。
女一人生きていく、覚悟らしい覚悟もないのに、自分には一人が似合っているという自信めいた思いだけが小さな胸の内にあるのも、持って生まれた性質なのかもしれない。
苗字を元に戻して、大阪南にある懐石料理のお店で働き始めた頃、「あんた、着物を着ると、貫禄でるなぁ」と、仲居頭のお桂さんに言われたことがあったけれど、それは、可奈子がそれまでに耳にしたどんな誉め言葉よりも嬉しく響いた。
いつも見た目だけで、優しそうな人と言われてきたから、余計に嬉しかったのかもしれない。「私は一人でも大丈夫」と確信した最初の一歩。
今でも着物の袖に腕を通すとき、お桂さんの温かい声が再生されて、可奈子の背中を叩いてくれることがある。
予感のゆくえ