テーマ:一人暮らし

五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、のこと。

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 駅前の郵便ポストに、さおりと名乗る女の子が丁寧に封筒を差し込む。落ちる音を聞くと、彼女はひとつ息を吐いた。
「どうしたの?」僕が尋ねる。
「なんでもない」
「そう」
「ポスト教えてくれてありがと」彼女は言う。彼女をつなぎとめるものは、まだこの街にはない。おそらくは小さな希望だけ。不安だと、僕は知っている。
「どういたしまして」
 だけど今のところ、僕はそう言葉にすることしかできない。
「スーパー寄ってなんか買っていこうかなぁ」
 彼女は夕暮れを見上げて伸びをした。まだ少し緊張する体をほぐすように。
「料理するの?」
「これから覚えるところです」
「五時を過ぎたから、お弁当だったら半額のシールが貼られてるよ」
「さっき鳴ってたもんね、五時のチャイムが」
「そうだね」僕が言う。時間が止まったような夕暮れが、まだ目の前に広がっている。ふと、彼女が呟くように言う。
「五時のチャイムって、誰かが何かを伝えてるみたいな気がしません? 空の向こうから誰かが」彼女は同じように夕暮れを見つめている。僕のよく知る人と、同じように。
「誰かって? 宇宙人?」
 彼女は、違う、と言うように僕を見る。
「きっと、もっとすごいもの」

 きっと、もっとすごいものよ。

 十五年前、僕は母のことを見上げていた。ちょうど同じような夕暮れがあった。母を見上げるほど僕は幼く、小さかった。
「どうかしました?」
 そう尋ねるこの隣人の言動は、すべてただの偶然なのだろうか。それとも僕に何かを伝えるために、五時のチャイムと共に現れたのだろうか。
「一人で帰れる?」そう言いながら、僕はポケットの中に手を突っ込んだ。じゃらじゃらと、ソフトクリームの釣り銭が音を立てる。
「どこか出かけるんですか?」
 僕はポケットの小銭を握りしめた。いくらだろう。いくらだろうと、母の病院まで行くことはできるだろう。もしも足りなければ、歩けばいい。面会時間に間に合わないなら、走ればいい。
 彼女は僕を見つめていた。彼女の後ろに今僕たちが歩いてきた道があり、その向こうに僕たちの部屋がある。
「似合ってるよ」
 そんなに大きな声を出したつもりはないのに、駅前に僕の声が響いた。買い物袋を下げた主婦が僕の方を怪しそうに見つめる。
「なにが?」
「この街。君に。さおりちゃんに」
 もしも、同じアパートに住んでいたという男が母にそう言わなければ、母は父と出会うこともなく、僕はここにもいなかったのだろうか。

五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、のこと。

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