五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、のこと。
「同じアパートに住んでた男の人にね、街を案内してもらったことがあった。郵便ポストの場所を教えて貰ったの」目を細める母は、今はドアを見ていない。ドアの向こうにある、僕の見えないものを見ている。
「そこから家族に手紙を送ったのよ。私はここで生きてきますって」
僕の知らない母の物語。
同じアパートの男から名前を尋ねられたとき、母は咄嗟に嘘の名前を教えた。自分をさらけ出すようで怖かったのか、少しでも違う自分になりたかったのか、今もまだわからない。
「悪いことをしちゃったな、あの人に」
「その人が父さんってわけじゃないんだ」
「さあ、どうかしら」いたずらっぽく笑う母は、僕の知らない女の人の顔をしていた。「でもね、その人が言ったのよ。なんだか不思議なことを。それを聞いたとき、この街でやっていけるかもって、そんな風に思えたの」
「なんて言ったの? その人は」
母は小さな声で僕にそれを教えてくれた。まるで魔法の言葉みたいに。
玄関は綺麗に整頓され、埃ひとつ落ちていない。そもそもこの家が汚れていたことなど、一度もなかったように思う。それは新しく一人暮らしから始まった母の人生が、この家にたどり着いたことを証明しているようだった。
「明日から、いってきます」
僕がそう言うと、母は初めて寂しそうに笑った。
父が死んでから、母は少しずつ弱っていった。部屋は汚くなり、美しかった玄関は見る影もなくなった。仲が悪いようには見えなかった。だけどあからさまに愛し合っている夫婦にも見えなかった。僕は知らなかっただけだ。僕は僕が生まれてからのことしか知らない。だから知らない。二人がどんな街で、どんな風に出会い、どんな時間を過ごしてきたのかも。それは僕が生まれるずっと前の話だから。
母は、父の後を追うように病気になった。
僕はどこかで憧れていたのかもしれない。実家を出て、恋人と新しい生活を始めるとき、頭のどこかに父と母の姿があったのかもしれない。だけど僕は、僕たちは二人のようにはなれなかった。恋人は忙しく、あまり僕に構っていられないようだった。おそらく彼女は僕でなくてもよかったのだと思う。誰かと一緒に暮らしたかっただけで、僕でなければいけなかったわけではないのだ。僕も、たぶん彼女でなくてもよかったのだ。楽しい思い出は十分にあった。だけど彼女が出て行ってしまっても、僕は深く傷ついてはいなかった。父がいなくなった母のように傷ついてはいなかった。それでは母に申し訳なかった。家を出て行く僕を見送ってくれた母に申し訳なかったのだ。僕は母と同じように傷つきたかった。家を出て懸命に生きていたと、あなたのように恋に落ちたと証明したかった。恋人が出て行ってから二日間、僕は家を出ず、掃除もせず、リビングに張り付いていた。母のようになりたくて。
五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、のこと。