テーマ:一人暮らし

五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、のこと。

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 だから、大学を辞めたい、働いて恋人と暮らしたい、しかも彼女は社会人で、住む街も彼女の職場に近い場所で、ちなみにバツイチで、彼女としてはこちらに挨拶に来る気は特にない、ということを一通り伝えたとき、恋人と同じ年の姉は、僕を蹴飛ばしながら「その女を連れてこい!」としか言わなくなり、気弱な父は蹴られる僕を涙目で見つめながら、なんの訴えか小さく首を横に振り続けていた。そんななか、母が心底嬉しそうに言った言葉がこれである。
「気がつくと、自分の街になってくるものなのよねぇ」
 あまりの場違いな物言いに、僕たちは同時に母の顔を見つめた。
「部屋もそう。最初は『ただいま』なんていうのも気恥ずかしいくらい他人行儀なのに。だんだんと、自分の部屋になってくるものなのよねぇ」
 そう言ってお茶を飲みながら遠い目をする母は、昔の思い出に浸っているらしく、時折クスクスと笑い、うんうんと頷き、それから満足そうに目を瞑って動かなくなった。そろそろ夕食の時刻になろうとしていた。父が恐る恐る「ご飯は?」と尋ねても、母は目を閉じたまま、お釈迦様のように動かない。たとえ後光が差そうと、僕たちにはありがたい話ではない。引越しの件はその時点で瑣末なことになり、今夜夕食にありつけるかが家族の最重要事項になった。僕たちは「お腹が減ったなぁ」と母に聞こえるように声を出してみたり、お皿やお箸のセッティグを先行して始めてみたり、今までおたますら握ったことのない父が、謎の捻り鉢巻をして、これ見よがしに料理を始めようとしてみたが無駄だった。母は動かなかった。目をつむったまま、にこにこと笑っていた。
 結局、母が夕食の準備に取り掛かったのは二時間経ってからのことだった。「ほらね、だから引越しっていいのよね」、誰に言うでもなくそう言葉にして、母はようやく台所に立ったのだ。
 母が二時間もの間、何を思い出していたのかはわからない。しかし引越しはなんだかいいものらしい、という印象が家族全員に植え付けられ、僕の引越しは決まった。


「ご家族は?」
 公園のブランコに並んで腰掛けて、僕たちはソフトクリームを食べていた。
 なんとなく立ち寄ったミニストップでソフトクリームをふたつ買った。それは突然彼女が「ソフトクリームが食べたい」と言い出したからで、僕は財布を持ってこなかったことを理由に断ろうとしたのに、ポケットを弄ってみるとたまたま千円札が入っていたからで、そういうわけで、僕たちは今ソフトクリームを食べている。もしも千円札がポケットに入っていなかったら、そもそも彼女がそんなことを言い出さなかったら、僕はこんな春先にソフトクリームなんて食べていないだろう。もしも僕の恋人が一緒に暮らそうと言い出さなかったら、母が許していなかったら、ここにいないのと同じように。

五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、のこと。

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