テーマ:お隣さん

文鳥

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「いってらっしゃい」
「いってきます」
「あ、そうだ、きょう山下さんがくるから」
「ああ、例の」
「うん。例の」
 ちょうど玄関を出ようとしたところで、隣の家から山下さんと奥さんの声が聞こえたから、私は音が立たないように玄関の扉を閉め、夫は慌てて道路に飛び出して、バス停に向かって駆けていった。夫が気を遣っている背中を見ながら、山下さんがはにかんでいた。
 とりあえず家事をしようと思っても、いつまで経っても面倒くさくて、とりあえずマンガを読もうとごろごろしているうちに昼寝してしまっていた。夫が息子のお弁当のために作った料理の余りを食べて、それから、がんばって家事をした。一応、最低限のことは終わって、ほっとしたけれど、今日は家に人がくることを思い出して、掃除機をかけた。この前掃除したばかりだけど、めんどくさいけど。めくるのを忘れていたカレンダーをめくると、明日、母の日だった。ああ、そういうことかとほほ笑んだ。
 最近行き詰ってるんだ、と山下さんがこの前いった。妻とは倦怠気味だし、息子との仲は悪くないけれど、妻と息子の仲は悪いみたいだし。だからなにか、状況を変えるために、サプライズでもしたいんだ。
 別にサプライズじゃなくていいのでは、と思ったけれど、隣人が困っていれば隣人愛の精神を発揮するのが私だ。息子がソウくんに文鳥をあげたのも、彼なりになにか思うところがあったのかもしれない。
 まず、息子が帰ってきて、それから山下さんがきて、夫が帰ってきた。山下さんは言い訳として「泊まりの仕事が入った」と奥さんにいったようだ。それってどうかと思うけれど、それ以外に妥当な言い訳を私も思いつかない。うそをついてしまった分、本格志向でいきたい、と山下さんはいった。だから、本当に山下さんはうちに泊まり込みで料理を作った。もちろん、夫が指導した。料理ができる夫は、山下さんやアシスタントの私の手際の悪さにいらいらして、自分でぜんぶ作りたそうにしていた。母親はもう死んでしまっているけれど、その分、母の日に、妻をねぎらうことができれば、と山下さんがいうのを聞いて、夫と息子はもぞもぞしていた。
 ビーフシチューができた。シーザーサラダができた。オイルサーディンができた。マッシュポテトができた。アジの開きができた。からあげができた。
 統一性もなにもないけど、ぜんぶ、奥さんの好きな料理だそうだ。息子がからあげに向かって、黙禱するように手を合わせていた。私にしかそのブラックユーモアはわからなかったようで、息子を肘で小突いて微笑み合った。

文鳥

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