テーマ:お隣さん

文鳥

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「うん」
 そりゃ、おまえが自分の金で買って、世話してきたものなんだから、おれにつべこべいう権利はないけど、と喉からは出てこず、苦い顔をしているうちに息子は夕飯を食べ終えて、自分の部屋に上がった。
「あげたんだって。文鳥」
「え、そうなんだ」と妻が答えた。
「隣の、ソウくんに」
「そっかー」
「いじめられてたり、しないかな。ほら、最近あの子、ヨシコさんにつらくあたってるって、この前タカシくんが」
「ただの反抗期でしょ。ゲンはどんな顔してた?」
「うーん。ふつう?」
「じゃあ、大丈夫でしょ。なにかあんのよ、私らにはもうわからない、あの年頃の友だち同士の、なにかが」妻がメールを打ちながらそういった。
「でもなあ」
 妻のいうことはきっと正しいのだろう。でも、親として、というか心配性の性格のために、いつまでも息子のことを年齢よりずっと幼く見てしまう。
「そういえば、あの鳥の名前って、なんだっけ」
「あ、なんだろう。なんだっけ」
「ゲンが名前呼んでるとこ、聞いたことないよな」
「そうだよね」
「聞いてこよう」
「やめとけば? もういないんだし」
 文鳥はずっと息子の部屋で飼われていたし、壁越しに鳴き声が聞こえてくるなんてこともなかったから、おれにとっては存在感のないものだった。それでも、もういないのだといわれると、それがなんであれ、喪失感みたいなものがある。いや、もっと、軽い。たとえば、財布のなかからお金を出すときみたいな。
 食器を洗い終えてリビングにいくと、妻はまだメールを打っていた。その隣で、息を殺すかのように、じっと、クイズ番組を見た。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
「あ、そうだ、きょう山下さんがくるから」
「ああ、例の」
「うん。例の」
 ちょうど玄関を出ようとしたところで、隣の家からタカシくんと奥さんの声が聞こえたから、妻は音が立たないように玄関の扉を閉め、おれは慌てて道路に飛び出して、バス停に向かって駆けていった。気を遣っている背中をタカシくんに見られているんだろうなあとはにかみながら。
 ちょうどバスに乗り込んだとき、車窓から、タカシくんが歩いていくのが見えた。右手には奥さんが作ったお弁当が握られている。おれも、少し前までは弁当を作っていた。でも、「できる旦那さんですね」とか「奥さんは楽できていいな」なんていわれることとか、妻がたまに「ごめんね」といってくるのが癪に触って、弁当を作るのはやめた。
 最近、妻は料理学校に通っている。「別に、そんなことしなくていいのに」といったら、「あなたが倒れでもしたときのための保険だから。いつもはあなたが作ってよ」といわれた。なんだか所帯じみている気がして、頼もしかった。

文鳥

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