テーマ:お隣さん

文鳥

この作品を
みんなにシェア

読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

閉じる

「なにそれ」
「文鳥」
「どこからもらってきたの」
「別に、関係ないだろ」
それ以上、息子に聞かなかった。干渉するのはやめておいた。
「おれの部屋で飼うから」
冷たい言葉に無理やりに理由をつけるなら、それは、十七歳という年齢のせいだと思いたい。いっそ、徹底的に反抗してくれたら、時間が過ぎたら楽なのに、と思うけど、その渦中にいるのも私だ。そうなったときには、いまの生活が変わってしまう確信がある。
いつからか、夕食で心が重い。家族三人で顔を合わせないといけない。テレビは雑音としか聞こえず、それは聞こえないのと同じで、お箸が食器にあたる音や、私と夫が喋らない音がうるさい。あなた、最近ケータイよく見てるね、そんなに仲のいい人がいるのね、なんて、なにもいわないことで主張してみる。料理に紛れる別の女のにおい。
「ねぇ父さん、文鳥をもらったんだ」
「へぇ、だれに」
彼らの、息子と息子の父親の会話を微笑ましく思いながら、ずっと憎らしく思う。
「ゲンさん」
「あぁ、ゲンくんか。元気でやってるの? 最近見てないけど」
ふたりが話しているのを聞きたくなくて、蛇口のノズルを全開にした。シンクに危なげに重ねていた食器が水圧で崩れる。食器についていた汚れに穴が開いて、飛び散った水が私にかかる。勢いよく。まるで、車にはねられた泥のように。まるで、返り血のように。でも、別になにも感じない。手が荒れている。殺伐としたものが手に刻まれている。ずっと前から。私が出ていったら、あの人たちは悲しむだろうか。
水垢がほこりのようにこびりついたシンクから目を上げると、彼らがリビングにいない。つけっぱなしのテレビではクイズ番組が放送されていた。この答え、知ってる。これも、これも。テレビを消して、夫がテーブルの上に忘れていったライターをソファの背もたれのあいだにねじこんだ、しつこく探せば辛うじて見つかるように。二階から彼らの声が聞こえてきた、文鳥を楽しそうに見ている声が。またテレビをつけた。
「はい、お弁当。いってらっしゃい」
「あぁ」
いってきますくらい、いえよ、ときのうまでの私なら苛立っていたはずだ。でも、きょうは少し和やかだ。男たちだけになった家を想像して、長いこと夫に手を振った。
明日か明後日だ。昼寝から覚めて、そう思った。
それでもやっぱり不安があった。出ていって、ふたりが私を呼びもどしてくれなかったら?
息子の部屋に入った。特に用があるわけではなかった。子どものにおいを嗅いでおきたいとでも思ったのかもしれない。自分を他人みたいにして。机の上に、籠に入った文鳥がいた。私の手のひらより小さい。水入れが空になっていた。水を入れ替え、部屋にあったエサを少しやった。エアコンをつけた。籠の下に敷いてある新聞紙は文鳥のおしっこで濡れていた。新聞紙を取り換えた。私がいなくなったら文鳥はじきに死ぬだろう。こんなに暑い部屋。

文鳥

ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

この作品を
みんなにシェア

6月期作品のトップへ