『湯を沸かすほどの熱い愛』『浅田家!』などを手がけてきた中野量太監督が10年ぶりに完全オリジナル脚本で送り出す最新作は『私はあなたを知らない、』。心温まる作風で知られる中野監督が、ヒューマンサスペンスという新境地に挑んでいる。美術を担ったのは、中野監督作品へ3本目の参加となる黒川通利さんだ。
その瞬間に必要なものをスタッフとつくり上げる喜び
シングルマザーの紗月(堀田真由)と、5歳の娘・朝子(倉田瑛茉)が暮らす、なんの変哲もないアパートは、セットを建てて撮影することになった。
まずは外観で使用する物件のロケハンがおこなわれた。


「想定したお芝居が成立する構造がポイントでした。結果として『2階に通じる外階段が2カ所ある』など、監督がこだわった条件を満たす物件に巡り合うことができました」
その物件をもとに、セットのプランは立てられた。
「観ていて違和感がないことが重要でした。セットによる内観と外観のアパートの玄関が自然につながって見えるよう配慮しています」
間取りは2DK。親子2人で暮らすには少々広めだ。

「夫を病気で亡くした紗月は朝子を連れて実家に戻ってお母さんと3人で住んでいたけれど、再出発しようと東京に出てきた。実家住まいだったからそれなりの蓄えはあっただろうし、気負って家を再び出た紗月は家賃も自分のキャパをちょっと超えるぐらいの物件に頑張って住んでいる。そこで、高級すぎず、かといって貧相には見えないよう設計しました」
実際、外観を撮影したアパートの物件と比べても、セットは広めにつくったという。
「お芝居の内容、撮影のしやすさを優先した空間にしています。その広さは監督と相談をして決めました」
監督が欲する要素は具体的だった。
「寝る部屋が和室で、押入れがあって、台所とリビングは戸を開けると空間が繋がる、というようなリクエストがありました。夕平(坂口健太郎)が初めて訪れた際、朝子が引き戸のガラス越しに見える、その直線のラインについても具体的にイメージされていました」
室内には紗月のキャラクターがにじんでいる。
「全体的にソファやカーテンなどは色合いを明るめにして、全体で柔らかい雰囲気に。家具も紗月が選びそうなものを配置しました。安価な家具量販店のものは避け、ある程度しっかりしたものを選んでいます。2010年頃という時代設定も考慮しました」


女性スタッフの意見も反映している。
「女の子のお子さんがいる美術部スタッフから聞いた要素も入れ込んでいます。子ども用のキッチン遊具はそのひとつ。朝子は一人孫だったので、祖母から良いおもちゃを買い与えてもらっているんです」
本作で黒川さんは意外な役割も担っている。夕平が同僚からもらったおにぎりを川に投げ捨てるシーンだ。
「ダミーのおにぎりには釣り糸をつけて、投げたあとにリールを巻き上げて回収できるようにしました。現場では釣り竿を持って立っていたのですが、それを知らないスタッフは、僕のことを釣り人のエキストラだと思っていたみたいです(笑)」



黒川さんにとって映画美術の面白さとはなんだろう。
「世の中にあるものないもの関係なく、監督が想像したものを具現化することの喜びです。本物だと数十年、しばらくその場に残りますが、映画のセットはサイクルが早い。その瞬間に必要なものをみんなとつくり上げる作業は楽しいですし、役者さんが空間に入って、それが画として自然に写っていたら『よかった!』と感じます。」



映像カルチャーマガジン・ピクトアップ#162(10月号2026年8月10日発売)『私はあなたを知らない、』の美術について、美術・黒川さんのインタビューを掲載。
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