それぞれの一人暮らし
京子は手を止めずに陽一が続けるのを待っていた。妻の件で誰かとこんなに真正面に話をするのは初めてだった。
「でももしかしたら・・・」そこで間を置いた。「もしかしたら、そう仕向けられたのかもしれない」それは自分でも意外な言葉だった。
「仕向ける?」
京子は鸚鵡返しに尋ねた。
陽一は、京子のスカート越しの下腹部が自分の頭部に微妙に触れるのを意識していた。今までこんなことを意識したことはなかったはずだった。
俺は本当にそう仕向けられたのだろうか?陽一はそう自分に問いかけていた。
亜希子は一つ手前のバス停で降りて、公園の水場の近くの大きな木の陰で、今朝の妹からのラインメールを読み返していた。長くて辛い文面だった。
【ご無沙汰しちゃってごめんなさい。ちょっとショックで返信ができなかったの。頭の整理がつかなかったというか・・・】
【長い文になるかもしれない。私はお姉ちゃんの味方だから、そこは分かってね】
【お姉ちゃんがその人のことを陽一さんに告白したこと、ずっと考えてた。やっぱり理解できないわ、私には】
【私なら絶対に言わないと思う。心にしまっておく】
【陽一さんの反応を見たの?残酷だね。お姉ちゃんはやっぱり手前勝手な考え方ができる人なのね】
【でも夫婦のことだしね。私があれこれ言うことじゃないのは分かってる。ゴメンね、言い過ぎちゃったかもしれない】
【お姉ちゃんもいろいろ大変だと思うけど、一人で抱え込まないで。相談相手になるよ。じゃあ、一人暮らし頑張ってね】
亜希子にはその言葉がなぜか一番胸に突き刺さった。
【一人暮らし頑張ってね】
だから返信ができないままでいた。
手前勝手な人か・・・まさかあの子からそんな辛い言葉をぶつけられるとは思いもしなかった。もうあの子に心の内を見せるのは止そう。
亜希子は自分の決断を後悔していない。ベトナムでの生活は自分でも驚くほどの充実ぶりだった。世の中に必要とされる喜びを久しぶりに実感していた。それはすっかり忘れていた感覚だったし、予想もしていなかった。家族にもそのことは伝えていた。夫に申し訳ないという気持ちで心が揺れることもあったが、自分を取り戻したという満足感が勝った。あの頃の自信のない私はもういない。深い海の底で、もがき苦しみ、むやみに手足をばたつかせていた私は・・・
誰も手を差し伸べてくれないから、私は自力でその闇から生還したのだ。手前勝手などという誹りを受ける筋合いはない。
それぞれの一人暮らし