それぞれの一人暮らし
亜希子は夫からの返信がそれ以上なかったので、持ち帰った仕事の続きをしばらくした後、パソコンでヤフーニュースを見て日本の出来事を確認したり、ユーチューブでお笑い番組を見たりして時間を過ごした。ふと時計に目をやると、十時をとっくに過ぎていた。階下の道路からは、まだ車やバイクの騒音が絶え間なく聞こえている。明日も授業のほかに、日本の企業の担当者とスカイプでの打ち合わせの予定があり、忙しい一日になる。
亜希子はリビングに出て、共用の冷蔵庫から缶ビールを取り出して、その場で口をつけた。熱風のような淀んだ空気がキッチンの窓から入り込んでくる。亜希子は窓を閉め、ベランダの扉の施錠を確認してから部屋に戻り、時間をかけて残りのビールを飲んだ。これでゆっくり眠れることを祈りながら・・・
【会社で母の日に生徒たちに花束をもらった。変な感じだけど、そんな風習があるみたい】
【嬉しいな】
【うん。感激する】
【昨日からの大雨で校舎の前にも水が溜まってしまった。板を渡した上を通って校舎に入るのよ。キャーキャー言ってしまった】
【若い娘じゃあるまいし】
【またそんなこと言う。歳関係ないでしょ】
【冗談だよ】
【庭の紫陽花が今年も咲いたよ。写真送る】
【わあ嬉しい。仕事のストレス忘れるわ。今日も忙しかった。お庭綺麗にしてくれてるね。ありがとう】
【こっちは相変わらず窓際族・・・】
【アオザイ作っちゃった。どう、似合ってる?】
【綺麗な青やなあ。ベトナム人に見えるよ】
【でしょう。今度これ着て出掛けよう】
日曜日の過ごし方は特に決めていなかった。テレビで海外ドラマを見たり、スポーツ観戦をしたり、庭仕事をした後にパラソルの下でビールを飲みながら読書をしたり、MTBで近場の田舎景色の中を走ったりと、その日の思いつきで大概は一人でのんびりと過ごしている。
妻が家にいた頃に比べて何か変わったことがあるとすれば、その日の予定を直前に決めるようになったことだ。何時にどこで何をするとか、食事をどうするとか、そんな予定をあらかじめ誰かに知らせる必要がなくなった。
その気楽さは思わぬ収穫だった。それまでそのことにストレスを自覚していなかったことが、かえって不思議な感じがした。夫婦で暮らすことで自然に巻き上がる粉塵に、鈍感になっていただけかもしれない。妻がいなくなったことで生じる生活面での不自由さよりも、妻が身近にいた時には感じることのなかった欠落を、今頃になって知った。
それぞれの一人暮らし