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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 淀んだ空気が亜希子を出迎える。人の気配はしない。シェアしている斎藤さんはまだ帰宅していないようだ。玄関口でスリッパに履き替えてから、自分の部屋に駆け込み、リモコンを見つけてエアコンをオンにする。それからベッドに腰を下ろして、ふうっと、息を吐き出す。

 ほとんどの日、陽一は自炊をする。コンビニ弁当もまずは買わない。この数年は妻と交代で料理をしていたので、妻がいなくなった今も特に不自由さは感じなかった。食べたいと思ったものを好きなタイミングで食べられるのは、案外気楽だった。
 今夜はキッチンにラップのかかった野菜炒めの皿が置いてあった。鍋には味噌汁が作ってあり、テーブルにはメモ書きがあり、娘の字で、「お疲れ様、冷蔵庫に漬物も入ってる。食べてね」と走り書きされていた。
「来たのか」陽一は独り言ちた。
 熱いシャワーを浴びた後に、陽一は冷蔵庫から冷えたビールと漬物を取り出して、キッチンのストールに尻を乗せた。まずは、一日お疲れ様、と自分に乾杯する。その後ダイニングテーブルに移動して、野菜炒めをつつきながら携帯電話を操作して、妻にラインのメッセージを打ち込んだ。
 ルールにはしていないが、メールで一日の出来事を報告し合うのが日課になっていた。ただ九ヶ月も過ぎると、話題を探すのに苦労することもあった。

 夕食は日本語学校で他の職員たちと一緒に済ませるので、亜希子はハノイに来てからは自炊をほとんどしていない。食材を買い出しする手間も、食後の皿洗いの手間もないから気楽だった。バクさんが仕切る調理部隊が作るベトナム料理は、どれも美味で口に合った。ベトナム人や日本人の先生たちとの会話も弾んだ。屈託なく笑えるなんていつ以来かしら、と初めの頃は思ったものだ。
 水圧の弱いシャワーを浴びた後にエアコンで涼みながら明日の授業の準備をしていると、「チン」という音が耳に入った。携帯電話のラインの着信音だ。

 【空梅雨、今日も蒸した。沙耶が作った野菜炒めを食べた】

 陽一が皿洗いを終えてリビングに移って携帯電話を確認すると、妻からのメッセージが入っていた。

 【そう、良かったですね。沙耶が来たんですね。元気そうだった?】

 陽一はすぐに返信を打った。

 【会ってないよ。久しぶりに顔が見たかったけど】

 【それは残念でした。今日は生徒たちと七夕の短冊を作ったのよ。願い事を日本語で書かせた。皆楽しそうだったよ】

 陽一がそれ以上返信をしなかったので、今日の会話はそれで終了だった。

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