テーマ:一人暮らし

それぞれの一人暮らし

この作品を
みんなにシェア

読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

閉じる

 いつもの停留所でバスを降りた陽一は、いつもの道順で自宅に帰りついた。月明かりに浮かぶ家は、さしずめ灯りのないランタンのように存在自体が希薄な気がした。
 この頃になって、この家を買うことにしたいきさつについて思いを馳せるようになった。下の子供が生まれたのを境に無性に自分の家が欲しくなった。が、不思議と、都市に近いマンションを買う発想がなかった。陽一にとっての家族と暮らす家とは、一戸建て。通勤にはあえて時間をかける。駅まではバスを利用するのもあり。最寄りの駅からの電車は各駅停車で、途中で急行に乗り換える。隣家がすぐそばに迫っているというのはなし。二階の部屋の窓から遠くの山並みが(少なくとも背の高い木々くらいは)、もしくはのどかな田畑の景色が見渡せる。
 そしてこの家に出会った。
 それから十六年間、この家から会社を往復し、この家で子供たちを育て、休日にはこの家を起点に行動した。夫婦ともこの家がお気に入りだった。というよりは、この家がある生活をとても気に入っていた。
 暗い玄関を通り抜けて居間に入り、外の明かりを頼りに電灯のスイッチを探した。白熱灯の刺すような光が一瞬にしてシーンを変えた。陽一は舞台の中央に立って、一人スポットライトを浴びている。まるで演出家がいて、彼の孤独を強調しているかのようだ。ただしそれはいつもの光景であり、彼はそんな効果?にはまるで気がついていない。

 きしくもその同じ時刻に、亜希子は自宅のマンションに向けて、バイクと車が行き交う四車線の道路を横断していた。亜希子のすぐ脇すれすれを、クラクションを鳴らしながら二人乗りのバイクが通り過ぎていく。一台過ぎるとすぐにまた一台。まるで自分に向かってくるような錯覚を抱いてしまう。

 ハノイではこれは当たり前の光景だった。この頃はバイクや車が交差する中を横切ることも平気になった。けたたましいクラクションを浴びても意に介さない。
 いつもの早足で程なく亜希子はマンションの前にたどり着いた。夕方なのに一向に弱まらない陽射しを浴びながら、蹴上の低い階段を数段上ってエントランスに入る。壁に貼られた伝言板を所在無げに眺めている管理人に軽く会釈をして、薄暗いエレベーターホールを横切り、階段で二階に上がる。
 203号室の部屋の前で亜希子は立ち止まった。バックの中をかき回して鍵を取り出し、馬鹿でかい南京錠を外して刑務所のような鉄の扉を開ける。さらに内側の木の扉を開けて、やっと室内に足を踏み入れる。

それぞれの一人暮らし

ページ: 1 2 3 4 5 6 7

この作品を
みんなにシェア

7月期作品のトップへ