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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 三十年の結婚生活がいつのまにか自分を蝕んでいたのは確かなようだ。ここらあたりで少し立ち止まってみて、周りの景色を見渡してみるのも良いかもしれない。

 今日は本当は家でゆっくりしたかったのだが、ベトナムの先生がせっかく誘ってくれたので、亜希子は一緒にタイ湖に蓮を見に出かけた。ホアンキエム湖までバスで行ってハイさんと落ち合い、そこからタクシーに乗った。
 タイ湖の北側の水面を覆い尽くす蓮の密集ぶりには圧倒されるものがあった。蓮の葉の濃淡の緑が織りなすグラディエーションは、夏の日差しの下、油絵のようにも見えた。残念なことに花はまだ一部しか咲いていなかったが、所々で開いているピンクの花は、物静かで上品な風情だった。
 照りつける日差しがずっと肌を突き刺していて、日焼けが心配になったが、湖面を通り抜けて微かに吹く風は心地良かった。来て良かった、と亜希子は思った。良い気分転換になった。
 帰りに途中でバスを降りて、大型のスーパーで夕食の買い出しをした。拙いベトナム語と手振りを交えて、なんとか惣菜を二種類選んだ。奮発して白ワインを一本買った。肌着売場で下着を手に取ったが、結局は買わないことにした。それから日本製のシャンプーとリンスをカゴに入れてレジに並んだ。が、レジの列がなかなか前に進まない。どうやら機械がタグをうまく読み取らないか、タグ自体が壊れている様子だった。店員が何度かタグを持って売場との間を行き来をしていたが、結局は諦めて出鱈目に手で金額を打ち込んだように、亜希子には見えた。
 なんでも良いからもう少し作業のスピードを上げてくれ、と亜希子がイライラしていると、「アキコ先生~」と自分を呼ぶ声が聞こえた。声の方を向くと、男子生徒たちの姿が見えた。数人がレジの向こうで笑いながらこちらに手を振っている。
 「こんにちは~」前に並ぶ人が怪訝な視線を向けるのも構わずに、亜希子も思わず手を振り返した。「買い物してるの?」
 「はーい、そうです」
 生徒たちは手を振りながらエスカレーターに乗り、姿を消した。学校の外で生徒に声をかけられることは、たまにあった。亜希子はベトナムの優しさに包まれている気がして、ちょっぴり癒された。

 雑草と向き合うのは、人生と向き合うことに共通点がある気がしていた。陽一は今の時期は、週に一度日曜日に雑草抜きに興じる。
 梅雨時にしては珍しく、青空が広がる気持ちの良い天候だった。庭仕事で一汗かいた後に、ガーデンチェアに腰を下ろしてタバコを吹かしながら、白い雲の動きを目で追った。それから家に入ってシャワーを浴びて汗を流した。今日はビールを飲まずに、短パンとTシャツに着替えてから家を出た。

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