テーマ:お隣さん

みどりの手紙

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その動きと同じくらい、翠さんの言葉には無駄がない。だからなんとなく、翠さんの言っていることは全てが正しいように思えてくる。仕事の話をしているときもそうだ。必要な要点と、こちらに要求すること、直してほしい点などをとても簡潔に伝える。実際、そうやって話す翠さんの言うことが間違っていたことなど殆どない。
女性を口説くときにもその口振りは変わらない。
だから私は私自身が魅力的な女性のような気がしてきて、どぎまぎした。
何と答えたらいいのか戸惑い、不格好な笑顔を返していると、翠さんは組んでいた手をほどいて再びナイフとフォークを握った。
「お肉、取り分けていいですか?」
「あ、すみません」
二人の間に置かれた鴨肉のビネガー煮の皿を少しだけ自分の方へ寄せてから、翠さんはナイフを挿し入れた。まるで翠さんのナイフだけ鋭利に研がれた特注品のように、そのナイフは柔らかな鴨肉の身を少しも崩さず切り分けていく。
「でも、それが隣の女の子への手紙なんじゃないかって考えるのにはもう一つ思い当たることがあって」
「はい」
私の話への相槌なのか、それとも取り分けた鴨肉を差し出す「はい、どうぞ」の意味なのか分からない曖昧な言葉を翠さんは返してきたので、それに私は一応「ありがとうございます」と返す。目の前に置かれた取り皿には付け合わせの野菜やソースまでが余すことなく綺麗に盛り付けられていた。
「その女の子が、マンションのエントランスで男の人に絡まれているのを見たことがあるんですよ」
「なるほど」
全くなるほどと思っていないような口調で翠さんは言った。そしてまた流暢に、料理を口へと運んでいた。
「そのとき私は出先からの帰りだったんですけど、ちょっと危なそうな雰囲気だったのでさりげなくエントランスへ入って行って挨拶したんですね、『こんばんは』って、すごくナチュラルに、女の子に向かって」
「それで」
「それで、男の人はびっくりしたのか逃げるように出て行ったんですけど」
「なるほど」
翠さんのなるほどは本当に感情がこもっていないなと思いながら、私は鴨肉のソースだけをすくって舐めるように口に含んだ。ビネガーの酸味で頬の奥の方がきゅうっと縮むような感覚がした。
「よほど怖かったのか女の子は何回も私に頭を下げてお礼を言ってきて。聞けば知らない男の人だって言うんで、もしかしたらストーカーの類いなんじゃないかと。とても可愛い子なので、ストーカーくらいいてもおかしくない気がするんですよね」

みどりの手紙

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