テーマ:お隣さん

みどりの手紙

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「…翠さん、」
「なんですか?」
相変わらず、自分のやっていることに間違いがあるなんて少しも思っていないような翠さんの微笑み。
「…別れたい、です」
しかしその瞬間、作り物みたいなその翠さんの表情に激しい感情の色が差すのを、私は初めて目撃した。


打たれた頬がジンジンと痛くて、明らかに腫れて熱を持っているのを感じながら私はマンションのエントランスの扉をくぐった。歩くたびに振動が伝わって歯を食いしばりたくなる痛みが襲うけれど、体の痛みよりも先に悲鳴を上げていたのは心の方で、「信じてたのに…」なんて陳腐な台詞を鉄の味のする唾と一緒にごくりと呑み込んだ。
別れたいと言ったその瞬間、翠さんは見たことのないような形相で私に右手を振り下ろした。平手ではなく、拳だった。糸のような目が見開かれて、小さな黒目が私を憎々しげに見下ろしていた。抵抗する間もなく二発目が頬に入り、声を上げる隙もなく三発目が肩へ入った。それから、まるでスイッチがオンからオフへ切り替わるみたいにスッと、翠さんの表情がいつもの能面へと戻り、「…さようなら」と一言だけ告げた。
もしあのまま交際を続けていたら、いつかガチガチにさまざまなことを管理され、挙げ句に暴力を振るわれていたかもしれない。だからこれでよかったのだと思うのに、何故か私の心は翠さんに対して情状酌量の余地を探していて、きっと左利きの翠さんが右手で殴ったのは少しでも私のことを考えてくれていたからだろうなんて、そんなことを思っては、本当は女として少しも愛されていなかったのではないかという事実から目を逸らした。
「…こんにちは」
下を向きながら、五階に止まっていたエレベーターが降りてくるのを待っていると、後ろから小さな声を掛けられてハッとした。赤くなっている頬を手で隠しながら恐る恐る振り返る。そこには心配そうな顔でこちらを窺っている、隣の、202号室の女の子が立っていた。今の精神状態ではあまり見たくない整った可愛らしい顔が小首を傾げている。
「こんにちは…」
無理やりに笑みを作って、私は小さく会釈をした。このままだと同じエレベーターに乗り同じ階で降り、隣同士の部屋に帰っていくことになる。その数分の間、チラチラと窺うような視線を送られ続けるのも苦痛だった。階段で二階まで上がろうかと思うが、しかしこの体でそれも億劫だと思い直し、ただ女の子から受ける視線に耐えた。
「あのっ…それ、」
遠慮がちな声とは裏腹、女の子は突然ぐるりと私の前に回ったかと思うと、正面から顔を覗き込まれた。私は驚いて咄嗟に顔を背ける。しかし、大人しそうな顔に似合わない力強い手が、私の肩を素早く掴んだ。

みどりの手紙

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