テーマ:ご当地物語 / 北海道帯広市

それからの、一年

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 私はその山から一掴みの新聞紙をつかみ取ると、すぐに廊下へ広げ、その上に立った。さらに先へ一枚、また一枚と、新聞紙の絨毯を敷き詰める。やっとのことで風呂場までたどり着いた私は、濡れた服を引きはがし、洗濯籠へ放ると、熱いシャワーを浴びた。
 先週強引に契約させられた新聞紙が、思わぬところで役に立ったものだ。私は気が付くと、シャワーを浴びながら大笑いをしていた。手のひらに出来た豆はつぶれていたし、腰と膝は曲げても伸ばしても痛い。だが、心の底から愉快だった。
 風呂場の小さな窓から見えるテニスコート沿いの桜の枝には、いつの間にか花が開いていた。ああ、春だ!
 原始人のように、私は裸で春の到来を祝い、いつまでも笑っていた。
 夏が来た、とは、それからしばらく思えなかった。東京や大阪で真夏日が到来というニュースを尻目に、帯広は肌寒い日が続いていた。札幌でも猛暑が、というニューズも尻目に、帯広ではまだまだジャケットが手放せない日々が続いていた。せっかくほころんだ桜の花も、降り続いた冷雨のせいか、あらかた散ってしまっていた。
 ところが6月も終わろうかというある日、唐突に帯広は真夏日を記録し、沖縄の気温さえ追い抜いた。晴れ間を見て作り続けていた庭も、不意の猛暑に乾ききり、土は真っ白にひび割れた。
 床暖房にパネルヒーターを完備した我が家も、北海道の一般家庭と同じく、クーラーなど備えてはいない。私は迫りくる猛暑に命の危機を感じ、昨日までの寒さを懐かしくさえ思っていた。
 気密性と保温性を第一にした住居で、思わず窓を開けてしまったのが失敗だった。外の熱気は怒涛のように室内に流れ込み、もはや座っているだけでめまいがするほど、家の中は蒸し暑かった。
 とりあえずコンビニエンスストアにでも逃げ込み涼を取ろう。私は部屋着のまま帽子だけを被ると、バックさえ持たずに玄関から外へ飛び出した。直射日光は暑く、また眩しかったが、そよ風が快く、家の中よりは外のほうが幾分も快適だった。
 恨めし気に家を振り返る。真っ白な外壁と緑色の切妻屋根がさわやかだ。草刈りを終えたばかりの庭は、それなりに涼し気に見える。なんだか狐につままれたような気分で、私はそのまま散歩に出た。もう、コンビニエンスストアという当初の目標は打ち捨てていた。
 そういえば、こちらへ越してから今まで、買い出し以外で周辺を散策したことはなかった。街路樹の木陰を縫いながら、私はあてどなく散策を楽しんでいた。時折「練習中」のプレートを下げた自衛隊のトラックが列を組んで走る以外、広い道路は車の影もない。静かに陽炎を揺らすセンターラインは、おろしたてのワイシャツのように白く清潔だった。

それからの、一年

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