テーマ:ご当地物語 / 北海道帯広市

それからの、一年

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 春が来た。そう感じたのは、帯広に越してからひと月も経った頃だった。
 荷ほどきや灯油の契約や、ガスの開栓やご近所への挨拶回り。そういった騒動がすべて終わって、やっとお茶でも入れようかと、台所に立った時だ。どこからか、まだ幼い鶯の声が聞こえてきたのだ。ケキョケキョケキョ……。窓の外を見渡すと、向かいの家の庭木の枝で、小鳥が数羽鳴きかわしていた。あんな小さな体で、よく通る声を出すものだ。薬缶が沸騰するまで、私は飽きもせず、鶯の姿を眺めていた。
 勤めていた頃は、鳥の声で季節を知ることなどなかった。四半期ごとの決算や定期監査、年末に年度末。クールビズにウォームビズ。そんなつまらないものからしか季節を知ることがなかった。
 サンルームに急須を運び、6月の陽光を浴びながら緑茶を啜る。やはり、退職してよかった。私はゆっくりと、自分の中で何かが恢復してゆくのを感じていた。
 電話越しに怒鳴りつける顔も知らない人間。何度提出しても突き返される書類。夜中まで計算しても合わない数字。そういった毒が、春の陽に溶けて流れて行く。
 緑茶を飲み終わると、ようやく決心がついた。ハンガーや柔軟剤と一緒にホームセンターで買ってきたスコップを握りしめると、私はサンルームから庭に下りた。かつては手入れがされていたのだろう芝生も、長く買い手が付かない内に荒れ果て、雑草が繁茂していた。ツツジの茂みやタイサンボクの庭木も、剪定されないまま、あらぬ方向へ枝葉を伸ばしている。
 私は勢いよく、地面へスコップを突き立てた。湿った地面の匂い。断ち切られた植物の匂い。そんな匂いに突き動かされるまま、私は荒れた芝生をはがし、地面を耕した。アリやミミズが慌てて土塊へ姿を隠す。私がスコップで掘り返す度、大地は呼吸をするかのようで、あたりに立ち込める土の匂いは濃くなっていった。
 すっかり汗をかいて、もう動けないほど私が疲れ果てたとき、突然に雨が降り始めた。気が付くと、先ほどまでの晴天が嘘のように、空はどんよりと鉛色に滲んでいた。
 私が露わにした黒土を、雨粒が打つ。すると土はより黒々と、艶やかな色と芳醇な匂いを放ち輝いた。
 そのまま空を見上げつつ、しばらく雨に打たれた後、私は節々が傷む身体を引きずり屋内へと戻った。ずぶぬれの泥まみれで、玄関から先へ進みかねる。どうしたものかと思案していると、目の端に、まだ開いてもいない新聞が、山と積まれているのが映った。

それからの、一年

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