かさねぐらし
彼は口元をゆるめて、それからいたずらっぽい目で私の方を見た。
「僕が君の正気を最初に疑ったのは――この部屋を見た瞬間のことだった。シンプルすぎる部屋、引越しが楽そうだなと思っているうちに、君からかさねぐらしの説明を受けて、こう聞いた。今回のかさねぐらし――重なる部屋が頻繁に変わることはないと言っていた。ならどのようなタイミングで変わるのだろう、と考えて至ったのは引越しでした」
ぱちぱちぱち、乾いた拍手の音が何もなさで広く余った部屋に響き渡る。
「大学生の時にひとりぐらしをはじめて、それから今の間で、七回目の引越しになります」
心のざわついている人は、部屋が汚いという。
心の綺麗な人は、部屋が綺麗だと聞く。
部屋に何もないのは――私は膝の上のブランケットの端をつかまえてぎゅっと握りつぶす。
「私も一般的な女の子でした。本棚があって、CDの棚があって、映画館でもらった特典のクリアファイルなんかに切り抜いた雑誌のページを入れているような。だけど、ある時、少しずつ気づいてしまったんです。この部屋には自分の好きなものしかないように見えて、本当は何もないんだと」
最初に捨てたのは、友達からもらったクマのぬいぐるみだった。
「実家で暮らしている間は、気づくことがなかった。たくさんの友達を招いている間は、知る由もなかった。……私が好きなものは、それを好きでいることを見せびらかせる時にだけしか生きられないこと。写真に撮ってネットにアップロードしたり、友達に遊びに来てもらったりするためだけの、飾り立てでしかないこと。本当に本当にだれにも見られないとするなら、想定する。電子書籍やデジタルミュージックでよかったと思う。ひっくり返して考える。私は本当に本当に本当なんてどうでもよかった。好きの本性が、本性とも言えない空虚が明らかになった時、私は自分にも大事なものがあると証明しようとした。一生だれにも見せる機会はなくとも、自分が残しておきたいと思えるものを残そうとした。その結果が、この部屋! 私には大切なものなんて何一つなかったんです……」
ぐっと唾を飲み込んで、つらつらと継ぎたしてゆく――そうやって何もない自分に気づいて、でも生活の忙しさから何か新しいことをして埋めようという気力も保てず、おそろしい早さで一日十日百日が過ぎてゆき、いい歳をして何にもない人間にだれもが愛想を尽かして、どこにもいられなくなり、取り繕った表面でなんとか新しい場所に逃げ込んで、しかしそこでもうまくいかず、根付いてじっくりことこと丹念に何かをやる能力に欠けていて、流浪し、痕すら残せず、早く部屋に帰ってもベッドしか残されていない。
かさねぐらし