花も涙も置ける部屋
おかえりと迎え入れてくれる花。それにつられて部屋にも花瓶を置いた。香りが欲しいな、と感じてアロマを焚いてみたりなんかして。お金を少しずつ節約して、小さな小物を並べてみようかな、とか。新しく買ったものを見せると、秦野さんがいいねえ、といつも褒めてくれた。柊也にラインで見せるのも楽しかった。あの悲しい匂いはじょじょに薄くなり、明るい花のような香りが私の家には流れるようになっていった。
そんなときだった。ひさしぶりにお母さんと偶然街で会った。休日暇だった私は少しの小遣いを持って駅前をふらついていたのだ。母は見たことのないかわいい服を着ていた。隣には、山下さんではない男の人がいたし、見間違いではないかと思い目を細めて少しだけ近づいた。すると、母らしきひとはこっちに気づいてはっとした顔をした。やはり、お母さんだ。私は話しかけようと口を開いた。すると、お母さんはそっぽを向いて私を避けるように男の人の腕をつかんで立ち去っていったのだ。なんとも言えない気持ちになった。人ごみの中消えていく母の背中をじっと眺めていた。悲しい匂いがまたした。あの家の匂い。思い出してしまった。
私は一人公園のベンチに座ってじっとスマホを眺めた。もしかしたらお母さんから連絡がくるんじゃないか。なにか事情があって無視したんじゃないか。だから、連絡を待った。だけど待っても待っても携帯はならない。気づくと辺りは暗くなっていた。どうしてこんな気持ちになってしまうんだろう。胸の奥が痛くて、目頭が熱くなる。お母さんが小さいときにくれたクマのキーホルダー。財布にいつもつけてある。悲しそうな顔のクマ。悲しい匂いのクマ。あの家でいつも泣いているような顔だったクマ。クマをそっと握って頭を撫でた。泣いちゃだめだぞ、とクマが言う。
『佐々木さん』
スマホが鳴った。それは柊也からのラインだった。
『カレー食べる?』
柊也の文字を見たら涙が溢れてきた。よく分からないけど、優しい文字に見えた。
『部屋にいないの?』
返事の返し方が浮かばない。
『どした?』
こんな私を気にかけてくれるひとがいる。私が、ほかの誰かの中にちゃんと存在している。声をかけてくれる。私は、生きてる。
真っ暗の部屋で小さな私は座っていた。襖の隙間から隣の部屋を覗いている。そこでは明るい電気の下、テレビを見ながら男の人とくっついて楽しそうにご飯を食べるお母さんがいた。おかあさん。小さい声で言った。おかあさん。もう少し大きく。それでもお母さんはこっちを向かない。
花も涙も置ける部屋