テーマ:一人暮らし

花も涙も置ける部屋

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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おかあさん。私は、死んでるの?

 桜の蕾が見え始めた頃、私は15年間暮らした家を出た。お母さんは心の底から嬉しそうだった。山下さんと二人になれた。家の玄関を出たとき、心の声が背中に響いた。お母さんは本当に子供のような人で、一人ではなにもできない。恋多きひとで、とくに私のことは好きではない。彼氏にふられたり、悲しい事があったときは「あいかちゃん、あいかちゃん」って寄ってきた。そんな母を嫌いなわけではない。だけど、あの家は嫌いだった。どこにいても悲しくなった。悲しい家だった。
 お母さんが探してくれたアパートは、入学する高校の近くで、繁華街の中にあった。一階には小さなスナックがあって、その上の二階の6畳ワンルームの部屋。そこが私のこれからの家になった。言われるがまま私はここにきて、言われるがまま布団と小さなローテーブルと、おもちゃみたいな冷蔵庫だけを置いた。お母さんは「遊びにいくね!」といつもみたいに明るく言った。音のないこの部屋にお母さんの声が響く。小さな窓から見える桜。青空。春の風は、私の心なんか無視するみたいに健やかだった。

「アイカちゃん。おはよう」
 高校入学して一週間。毎朝アパートの階段の下で掃き掃除をしているオーナーの秦野さん。腰が曲がっている小さなおばあちゃん。
「おはようございます」
「気をつけるんだよ。いってらっしゃい」
「いってきます」
 一日の始まりはこれで決まりになってきていた。秦野さんとの会話が一日の始まり。不愛想で人見知りのせいで友達はまだできていないから、まともに会話するのは、この秦野さんだけだった。
 入学した高校は中学と変わりないものだった。楽しそうに笑い合うグループがいたり、ふざけて怒られているグループがいたり、大人しく固まっているグループがいたり。私はいつもどこにも入れない。だって、こんなんだから。机ばかり見て、時々窓の外を見て、何度もトイレで時間を潰して、そうやって下校の時間までやり過ごす。中学がそんなだったから、じゃあ、高校から変わろう! なんて気力もなかった。「アイカちゃんは暗い!」と笑うお母さんの声がまた響いて、余計笑えなくなる。どうして私はこんななんだろう。悲しい家の匂いがまだ身体からとれない。
 学校の帰り道、スーパーに寄って夕飯の買い物をして帰る。実家にいたときから料理はやっていたから苦ではない。安売りしていた玉ねぎと豚肉を買って今日は生姜焼きにしよう、と決めた。財布にぶら下がるクマのキーホルダーが、また? という顔を向ける。

花も涙も置ける部屋

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