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Forget Me Not

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 春からの出来事を話すと、マナさんは驚いたような、でもうれしそうな表情になった。
 「うん。アイムーブカメラの記憶…いや、メモリーチップには、きみと暮らした日々のデータが、無意識に像を結んでしまうほど深く刻まれているみたいなんだ」
 だから、アイムーブカメラの動作が止まっているふとした瞬間に、ホログラムのようにマナさんの姿が浮かび上がってしまった、というわけだ。一種の、「バーチャル機能の故障による誤作動」だ。機械は人間よりもずっと正確だと信じていたが、ハイテクなものほど、ちょっとしたショックに弱いものなのかもしれない。機械は枯れはしないけれど、毎年季節が廻ると芽を出し、大風になぎ倒されても起き上がる植物の方が、ずっとずっと強いように感じる。
 「205号室には幽霊が出る」と噂になっていると話すと、マナさんはしずかに微笑んだ。アイムーブカメラの映し出す像とは違い、現実のマナさんは、笑顔が少なく伏し目がちだ。
 「ごめんなさい、不機嫌なわけじゃないの」
 オレンジジュースを一口飲んで、マナさんは言った。
 「誰かとこうして話すのはあまり慣れなくて」
 植物となら、水が足りないとか、光りが足りないとか、自然と心を通わせるることができるんだけど、と、マナさんはオレンジジュースのグラスに向かってつぶやいた。
 「205だけが、上京してから、入学してから、ずっとあたしの話し相手になってくれた。植物や、それから機械も、言葉で人を傷つけないでしょう?」
 「そういうふうにプログラムしてあるからね」
 僕が答えると、マナさんはうつむき、そうね、と言った。
 「でも、205は自分の意志で、プログラムを超えたんだ。言ってしまえばシステムの誤作動なんだけど、住人データを上書きしたあとも、前に住んでいたマナさんのデータを消去しないどころか、残像として再現してみせるなんて、きいたことないよ」
 するとマナさんは顔をあげ、あのまぶしい笑顔で言ったんだ。
 「だって約束したもの、寮を出る時。『あたしを忘れないで』って」
 アイムーブカメラに貼られた、ラメ入りのシールのロゴを思い出す。『Forget Me Not』。ジャガイモ畑からやわらかい風がカフェテラスへ吹き込み、マナさんのくすんだブルーのブラウスの袖がふくらむ。まるで、小さな、はかない花のようだった。
 「あたしはね、植物が大好きなの」
 「僕は、機械が大好きだよ」
 実習の時間がせまってきたけれど、僕はなかなか腰をあげられずにいた。僕の目の前にいるのはたしかにマナさんだけれど、ここで別れてしまったら、ホログラムのようにかき消えて二度と会えないんじゃないか、と不安になった。「また会えるかな?」なんて台詞、僕の弱っちい根性にはインストールされていなかったから。僕は、マナさんが「そろそろ行かなきゃ」と切り出す前に、なんとか話を続けようとした。

Forget Me Not

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