テーマ:一人暮らし

Forget Me Not

この作品を
みんなにシェア

読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

閉じる

 授業へ出かける準備—といっても、教材情報の入ったタブレットひとつに電子マネーカードくらいだけど—をしていると、花瓶に花を生けている例の女の子の姿が目の端に映った。耳の下で軽くカールした栗色のショートカットに、華奢で日に灼けた手足。「幽霊」にしちゃ健康的すぎるし、にこにこと花の茎を切る女の子の横顔は幸せそうだ。幽霊じゃないならなんだ、という話になるが、人の機能なんて、そう機械のように正確じゃない。見たいと思えば、見えないものでも見えてしまう。「幽霊がいる」と言われれば、ちょっとした影やゴミ袋だって、そのように見えるのさ。目の錯覚ってやつだ。
 じゃあ、僕の場合はどうだろう。女の子はどちらかというと僕の好みだったので、おおかた恋人が欲しいとか、キャンパスで見かけたかわいい子だとか、そういった深層心理や記憶が無意識のうちに現れちゃってるんだろう。入学してすぐはラボの実習がたてこんでいて徹夜続きだったし、眼科検診も長いこと受けていない。帰ったら、アイムーブカメラに簡単なヘルスチェクを頼もう。僕は女の子の姿を振り払うように頭を振り、
 「205、いってくるよ、セキュリティモードでよろしく」
 と言った。玄関のオートロックパネルがピピッと光り、
 「2分後に、セキュリティモードが作動しまス。いってらっしゃイ」
 とスピーカーから音声が流れる。女の子の姿は、いつの間にか消えていた。
 午後は別館にあるラボでの実習だったので、キャンパス内のバイオプラントを通って近道をする。今の時期はちょうど、ジャガイモの花盛りだ。ジャガイモは土の中から掘り起こす、あのごつごつとしたイメージしかなかったが、バイオプラントの入り口に表示された電子パネルで、ジャガイモにも花があることを知った。白にうっすらと藤色が混ざった、うすぼんやりした花だ。ふと目の端を栗色のショートカットの女の子の姿がよぎったような気がして、僕は足を止めた。おそるおそるあたりを見回してみるが、誰もいない。僕は、ふっと息をもらして笑った。
 (ほら見ろ。「205号室に出る幽霊」なんて、うそっぱちだ。その証拠に、部屋の外でも、彼女の姿が見えたんだから)
 いずれにせよ、すこし神経がまいっているのかもしれない。畝に沿ってゆるやかに伸びるジャガイモの花道、ガラス張りの天井越し、真上に広がる青い空を眺めると、これからラボにこもって顕微鏡を覗き込む孤独で窮屈な作業など、まるでやる気がなくなってしまう。僕は白衣の前をしっかりと合わせ、足早にバイオプラントを後にした。

Forget Me Not

ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9

この作品を
みんなにシェア

4月期作品のトップへ