テーマ:お隣さん

くしゃみ

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 その日はずっとヤマダさんの声は小さく、母が癇癪を起す声が聞こえてきても、私は自室に籠ってレゴをしていた。くしゃみは相変わらずだった。
 ヤマダさんにお詫びの手紙でも書こうかと思い、書いて、何度も捨てた。こういうのはかえって気持ち悪がられるだろうか。ふつうに接した方がいいだろうか。でも、ふつうってどうやるのだっけ。電話が鳴った。
 ヤマダさんは次のシフトの日、体調不良でこれなくなったと、ヤマダさんの職場から電話があった。機械のような声だった。私がなにかいう間もなく、生温かい電話が切れた。
 代わりにやってきたのはたくましい男性で、彼の前では私も母もずっと小さかった。母ははじめてくる人に混乱したが、彼は仕事をてきぱきとこなして、母に丁寧に接してくれた。ヤマダさんから聞いていたのだろう、蛍光灯を持ってきてくれていたし、くしゃみにはほとんど反応しなかったが、頬を引きつらせるのがわかった。彼は、蛍光灯をあっさりと変えてくれた。
私はなぜか気詰まりになり、外へ出た。いや、レゴブロックでいっぱいになった部屋のなかで、幼児退行したようにブロックを組み合わせてにやける姿を見られたくなかったのだ。行先を決めずに電車に乗り、知らない町で降りた。目に入る大半の人は老人で、どこも同じみたいだった。私と同じ年代の老人たちの声が、まるで未知の世代の新しい言葉のように、雑音として体のなかに入ってきた。私はいまどこにいるのだろうか。前を歩く老人たちの足取りがひどく遅いことにいらだちながらも、私も確実にそのひとりだった。
夕方になって家路につき、くしゃみが聞こえるところまでくると、彼がちょうど仕事を終え、つまり私の家を出るところだった。私は彼に姿を見られないようにと、電柱の影に隠れなければならなかった。隠れていたところを、左隣の家の娘が見ていた。
家に入ると、私はまずお風呂に入った。浴室の窓から陽がさしこんでいたので照明を点けずに入ったが、お湯に浸かっているうちに暗くなった。暗さのせいか、お湯がぬるく、私自身の体温さえないように感じたが、暗い方がよかった。湯のなかの私の体を、浴室の鏡に映る私の体をあまり見なくて済んだ。ほとんど母といっしょだった。くしゃみの音が反響した。
お風呂を出て、リビングに入ると母がいて、屈みこんでいた。「なにしてるの?」という私の声を聞いた母が振り向くと、母はまだ仕舞われていなかったスタンド式の夜光灯の電球に、歯を立てていた。「なにしてるの?」と私はもう一度聞いた。「おもちがあるよ」と母がいった。そうだよ、おもちだよ、あともう少しで、割れるよ、といいそうになった私がいた。「おもちだよ」と母がもう一度いって、電球に歯を立てていった。母は電球を食べる代わりに、あいだに割り込ませた私の手の甲を噛んだ。痛くなかった。母にはなんの力もなかった。

くしゃみ

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