テーマ:ご当地物語 / 熱海

熱海ストリートブックタウン

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「伊豆山神社へ行ったんですね。階段は下りの方が足腰に負担がかかるんですよ。そうそう、あそこの近くに美味しいロールケーキ屋さんがあるんですよ。知っていましたか?」
「あ、全然知りませんでした。」
「じゃあ、後でお店の名前とか場所を書いたメモ渡しますね。」
 坊ちゃんと話していると熱海にどんどん詳しくなっていく。お礼を言うと「他にも色々教えますよ。美味しいパン屋とか。喫茶店とか。」とさらに親切なことを言ってくれた。「いつも親切ですね」と言うと坊ちゃんは笑った。
「山野さん、熱海が好きでしょう。わかります。熱海を好きになる人とはどんどん話せるんです。本当は人見知りなんですけどね。」
なんだか、心がぽっとした。
その後、十日間、私は興奮気味に熱海の生活をつづけ、二、三日に一回は坊ちゃんの鍼灸院に通った。本当に足や腰が痛いときもあれば熱海に関する取材のつもりで行くこともあった。気づくと坊ちゃんは私のおとぎの国のレギュラー登場人物になっていた。
帰る三日前くらいになってようやく、私の精力的な活動は落ち着いた。飽きたわけではなく、やっと慣れてきて「毎日海を見なくては損だ」というような不自然さがなくなったというべきか。
帰る前日、私は坊ちゃんの鍼灸院へ行き、東京へ帰る旨を告げた。坊ちゃんは「熱海にくる時は連絡ください。時間あけておきますから。」と言った。施術の予約のことを言っているのだろうか。それとも別の意味なのか。はたまた意味などないのか。多少混乱したが「わかりました!」と元気よく言って鍼灸院を出た。
翌朝は今にも雨が降りそうな雲が低く垂れ込めていた。品川に着いてタクシー乗り場に並ぶと、ちょうど雨がぽつぽつ降り始めたところだった。当然のことながら足元にも置けるようなスーツケースなのでトランクなど開けてもらえない。自分で「よいしょ」と乗せながら早くも熱海の小さな親切が恋しくなる。
家に着くと近所にある八重桜が咲いていた。配色が和菓子の道明寺そっくりだ。私は熱海で食べた和菓子の道明寺を思い出してまた熱海が恋しくなった。そして、ゴールデンウィークも熱海で過ごそうと思った。
 ―一年後―
あれから私は、ゴールデンウィーク、夏の休暇、秋のシルバーウィークを熱海で過ごし、年末を迎えるころには移住を決意していた。色々な整理や準備や出来事を経て、私は今熱海にいる。その色々なことは詳しくは述べないが、色々で色々な色々だった。そして、自分だけのおとぎ話をここで紡いでいる。

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