テーマ:ご当地物語 / 熱海

熱海ストリートブックタウン

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 その日の昼、私は海辺のデッキをサンビーチの方まで歩き、春休みらしき子供たちに交じって波打ち際を裸足で歩いた。こういうこともやってみたかったことの一つだった。海の水は想像していたよりもずっと透明で、太陽が水底まで差し込んでキラキラしていた。ラムネの瓶の中のビー玉みたいな色だなと思う。途中、少しお天気雨がぱらついたが気にせずにいた。絵に描いたような海辺の生活が楽しくて仕方ない。
急に海を見ながら飲み物を飲んでみたくなり、海から上がって太陽に温められた砂浜を歩くと足の裏がホクホクしてすぐに乾いてしまった。私はそのまま軽く砂を払い、靴をはいて近くのコンビニでホットコーヒーを買ってベンチに座った。
空は水平線から上に向かうほど濃くなる水色のグラデーションになっている。海の向こうに初島や、ぼんやりと伊豆大島も見えた。いろんな青があるんだなと思いながら海と空を眺めていると、湯河原の方角に虹がかかっているのを発見した。おとぎの国みたいだ。
 そのまま虹を見ていると、虹を背景にニコニコと見覚えのある人が歩いてきた。昨日の坊ちゃんだ。鍼灸師の格好の上からパーカーを羽織っている。無視するわけにもいかないので昨日のお礼がてら声をかけると、坊ちゃんの方は空き時間に銀行へ行ってきた帰りだと言う。
「山野さんは何をしているんですか。」
「虹を見ていました。」
坊ちゃんは私の指差す方向を見て目を輝かせて笑った。
「あ、本当だ。今日はラッキーですね。」
白い歯がこぼれる。顔は白くすべすべとしているし、この人はいったい何歳なのだろうか。昨日何かに似ていると思ったら、お雛様の中の五人囃子だ。そういえば中学生になった頃からお雛様も出していない。カビだらけになっているかも、なんてことを考えていたら坊ちゃんはそのままベンチに腰を下ろしてニコニコしている。挨拶を交わすだけだと思っていた私は少し焦った。どうしよう、なにか話さなくては。
「先生は熱海にお住まいですか。」
なんとか質問した。
「はい。でも生まれ育ちは三島なんですよ。」
「三島で開業しなかったんですね。」
「三島じゃダメだったかも。僕、熱海でやろうと思ったことは全部うまくいってきたんです。鍼灸の学校も熱海だったし。一度東京の鍼灸院で働いたけど、なんか合わなくて一年で辞めました。でも熱海に戻ってきたら、運よく開業できたんです。」
 熱海でやり始めたことはうまくいくって、本当におとぎの国じゃないか。

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