テーマ:ご当地物語 / 熱海

熱海ストリートブックタウン

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「はい。僕のやり方だと東京ではやっていけないかもしれませんけどね。」
やはり熱海は親切だ。帰りは温泉でも入った後のようにぽかぽかしながら帰宅し、その日は母に夕飯を作ってあげることができた。
 翌朝は、まだ薄暗い中、庭に集まる鳥の声で目覚めた。鳥のさえずりで目を覚ますなんて、何年振り、いやそんなことあっただろうかとぼんやり寝床で考えた。都会のマンションで生まれ育った私には、鳥のさえずりで目覚めることはあまりなかったように思う。熱海に来てからの二日間も、体の不調から鳥のさえずりに気づく余裕がなかった。気づいたということは、少しずつ身も心も余裕が出てきたということか。確かに、鍼灸のおかげか昨日まであった頭の重さや背中の張りが全くない。急にうれしくなり、せっかく熱海にいるのだからと、もっと海辺らしい生活を満喫したくなってきた。
時計を見るとまだ五時半だったので、海で日の出を見ようと思いついた。私は急遽パジャマの上から薄いコートを着てスニーカーを履き、そっと家を出た。東京ではこんな格好で外に出たことはない。熱海をなめているわけではなく、「海辺に住んでいる私が海へ日の出を見に行く」という行為のイメージファッションだった。なんだかワクワクする。母を起こさないように玄関の扉をそっと開けると、まだ少し冷たい空気が頬に触れたが、やはり東京よりはずっと暖かい。私は小走りに海の見えるデッキのほうへ向かった。
海辺のデッキに出るための階段を上がり終えた時、ちょうど水平線から線香花火の火の玉に似た太陽が昇ってくるところだった。太陽の周囲にある雲はきらめくオレンジ色に染まり、雲間からは行く筋もの光の筋が神々しく海に向かって降り注いでいる。日の出ってなんて力強いのだろう。自分がエネルギーチャージされていくような気がする。ただいつもと違う朝が新鮮でハイになっているだけかもしれない。どっちでもいい。とにかくテンションが上がる。夕日に似ているようで似ていない、ギラギラとした火の玉みたいな太陽を見ながら、ふと、こういう朝の方が自分にとって心地よくて、したい暮らしなのではないだろうかという思いがよぎった。そして、社会に出てから今まで自分がしてきた暮らしは自分がしたかった暮らしなのだろうかという疑問がわく。今まで考えもしなかったことを考えて私はたじろいだ。ここに気づいてしまったら東京に戻れなくなりそうで、深く考えることをやめて家へと引き返した。温暖な熱海とはいえ、手足は冷え始めている。帰宅してすぐに風呂に湯を入れ温泉につかると、冷えた手足の先っぽに一気に血がめぐってジンジンとした。

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