テーマ:ご当地物語 / 熱海

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別に恨んでいないからいい。今は、子供時代にしたかったことをやり直しているようで単純にうれしい。お雛様を熱海の家に持ってきているとは思わなかった。母なら捨てかねないと思っていた。まだ男女雇用機会均等法もなかった頃に就職し、育休もなかった頃に私を生んだ母は、男性に負けまいという一心で頑張ってきたようなところがあった。そのせいか、私の記憶の中の母は女性的なものを無意識に否定しているきらいがあり、桃の節句も軽視していたように思う。退職して余裕が出たからもあるだろうが、開放的な空や海や、親切な人や、芯まで温まる温泉効果だろうか、眼光鋭かった母は以前よりずっと柔和に、そして素直になっていた。
飾り終えた七段飾りのお雛様はとても壮麗だった。付属の扇型のオルゴールを回すと、劣化して歯が欠けたのか、ところどころ音のとんだ間抜けな「うれしいひなまつり」の曲が流れて、母と二人でゲラゲラ笑った。
 せっかくお雛様を出したのだからひな祭りをしようということになり、三時すぎ、このあたりで一番大きなスーパーへ私は買い出しに出かけた。和菓子の道明寺と刺身を買ってスーパーを出ると水色にはちみつを混ぜたような空が見えた。まだ夕方ではないが、その手前という感じだ。芽吹きはじめた草のにおいが風に混じっている。熱海に来てから私は色や季節に敏感になったと思う。そういう自分の変化が心地いい。ふと、ずっとこんな自分でいたいと思った。
 帰り道、清水町の商店街を歩いていると、前から再び見覚えのある人が歩いてくる。坊ちゃんだ。本日二回目の遭遇に、さすがに二人で笑ってしまった。
「今日鍼灸院はどうしたんですか。」
「いつもはもっと忙しいんですけど、今日はなぜか予約が少なくて。時々こういう日があるんです。だから、早いけど夕飯を買いに来ました。山野さんも買い物ですか。」
「母と遅ればせながらひな祭りをやろうということになって、お刺身を買いました。」
「あ、お刺身とかお寿司ならそこの中島水産がおすすめですよ。お寿司なら特上が特におすすめです。一緒に行ってみませんか。」
坊ちゃんは意外と人懐っこい。いや、親切なのだろうか。私は坊ちゃんについて中島水産という小さなスーパーに入った。中にはたくさんの魚や寿司が並んでいる。どれも新鮮そうでキラキラぷりぷりしていた。その中で特上の寿司は燦然と輝いていた。大トロ、トロ、いくら、鯛、高級魚ばかりが並んでいるのに千五百円だ。坊ちゃんがすすめる気持ちもわかる。東京だったら絶対に千五百円では買えない。やはり熱海はおとぎの国だと思いながら、私は坊ちゃんのおすすめに従って特上の寿司を二つ買った。坊ちゃんも今日の夕飯は特上の寿司にするそうだ。帰る方向が同じなので自然と途中まで一緒に帰ることになった。

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