冬に眠る

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「いつ帰れるかも分からないのに、はい、そうですかって、あんな小さい子を入院なんかさせられるか」
 お父さんが怒っている。お父さんのこんな声を聞くのは本当に久しぶりで、自分が怒られているわけでもないのに泣きたくなる。しかも、まゆみが入院? 嘘だ。あの子はまだ三才だ。幼稚園に行くのもやっとで、帰ってくる間に眠ってしまうような小さな子どもなのに。嫌だ。入院なんて駄目だ。だって、だって、まゆみは一人で眠れないんだ。真っ暗な夜の病院で、誰もいないベッドで、あの子はきっと泣く。
「じゃああなたはまゆみをどうするつもりなの?」
 お母さんが溜め息をつく。
「病人じゃないなんて言うけど、あの子、もう二週間くらいずうっと寝る間もコンコン咳をしているのよ。可哀想に。あなたは日中一緒にいないから分からないでしょうけど」
 いらいらとお母さんが言った。
「小さい子は風邪だって馬鹿にできないのよ。一日でも早くちゃんとお医者様に診てもらって、ちゃんと治してもらわなくちゃ。悪い病気だったらどうするの? あの子になにかあったら、あなたどうするの?」
 お母さんが激しい口調で詰め寄る。
 ああ、お母さんが泣いている。私も涙が目からぽろぽろとこぼれ落ちるのを止められなかった。
「できることなら私だって入院なんかさせたくないわよ。でもしろうとの考えで放置して、悪化して手遅れなんてことになったらっ」
 叫ぶようなお母さんの声となにかが倒れる大きな音が聞こえた。お父さんが慌てたように
「悪かったよ。ごめん」
といつもの優しい声に戻って言った。
「まゆみはきっと大丈夫だから。座ってくれ。落ち着いて話そう。な?」
 お母さんがすすり泣く音が聞こえる。
 爪の跡が手のひらに残るくらいに指を強く握り込んだまま、涙か鼻水かわからないしょっぱいものをパジャマの袖でごしごしと拭う。乾燥した目の周りがぴりっと痛んだ。リビングに背を向けると、つま先だけで階段を駆け上がる。音はほとんど鳴らなかった。
 お父さんとお母さんの部屋の前で思い切り息を吐く。泣き声のような湿った息が出た。
 部屋に入り、ドアを閉める。かぎをかけられたら良かったのに。そうすれば、あの子はどこにも連れて行かれなくなる。ベッドに歩み寄り、浅い呼吸の弟を見下ろす。風邪がうつるといけないからと、この部屋で寝かされている弟のまん丸の顔は、窓から差し込む月明りでぼんやりとしか見えない。
 夜ご飯のときはゴホゴホと辛そうに咳き込んでいたけれど、今は落ち着いたのか、すうすうと規則正しい寝息が聞こえていた。ああ、ちゃんと生きている。当たり前のことなのに、その音が胸を苦しくさせた。まゆみが寒くないように、起こしてしまうことがないように、そっと布団に潜り込み、手さぐりで小さな身体に触れる。

冬に眠る

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