テーマ:一人暮らし

佐和山の城

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「琵琶湖だろ」

先輩松平の合いの手が入った。
滋賀県といえば取りも直さず琵琶湖だと言いたいのだ。
佐和山ハルは研修を終えたばかりの新入社員。まだ右も左も分からないヒヨっ子だとは自覚しているけれど、自己紹介に限っていえば手馴れてきたものだと自負している。
だから、滋賀県出身のハルが自己紹介をするたびに「琵琶湖」と返されることはもう宿命のようなものだと悟っていた。
しっかりと相手を見極めたときにだけ「滋賀は琵琶湖だけじゃないですから」と切り返えすことも学習した。
 愚痴を重ねるなら彦根市の生まれと伝えても箱根と彦根は違うくらいにしか理解されないのは悲しい。
彦根にだって誇れるものはいっぱいあるのに。
郷土愛に溢れる一方でハルはもうすっかり東京の魅力に心を奪われていた。
この国で最先端のモノは全てここで生まれるのだと信じてしまえるほどに街には活気が溢れ新しい刺激で満ちている。そして、そんな街で生き残ろうとする人々の必死さもまた、故郷の人々と違って勇ましく思えた。
ハルは大江戸808不動産株式会社の社員食堂にいた。広報部に配属されたハルが竹中、梅本、松平の3人の先輩と一堂に会して昼食を取るのはこの日が初めてだった。

「ところで佐和山さんは上京してきて今回がはじめての一人暮らしなのよね」

先輩の竹中が早々に琵琶湖の話題を切り上げてくれたことにハルはほっとする。ハルは決して彦根市の広報部員ではない。お国自慢は暇つぶしのときでいい。自己紹介の場で覚えてもらえたことは、某有名ご当地ゆるキャラのプロフィールだけだったなんて悲劇は二度と繰り返してはならない。

「そうなんですよ。実家は小さなマンションで、私三人きょうだいの真ん中だったから、自分ひとりの部屋なんて用意してもらったことが無くて、上京して初めての一人暮らしが嬉しくてたまらないんです。そうですねぇ、例えるなら自分だけのお城を持った気分です」

新生活の話題となるとハルは半ば乗り出すほどの勢いで気持ちよく語りだす。
一人暮らしのマイルームにずっと憧れを持っていたハルにとって、それは城のようにかけがえの無いものなのだ。

「ずいぶんと張り切ってるわね。でも、一人暮らしって慣れるまでは大変でしょう。いや、慣れても大変かな。炊事に洗濯、お掃除全部きちんとこなせているのかな。仕事だけで手一杯だと放置してると、目に見えて生活が荒廃していくわよ」

「実体験ですか。おお、怖い」

と茶化す松平。

佐和山の城

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