テーマ:お隣さん

ダム子

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 このままいつもの散歩道を歩いていくと、もう少し先のところに、地面に書かれた一時停止の「とまれ」があって、私はそこが大好きだった。一人暮らしをし始めて、どうしても寂しい夜に今日のように近所を歩くときは決まって、そこの前に立ち止まった。もちろん今日も立ち止まる。ここにある「とまれ」を見たいがために私は立ち止まる。なぜか。それはここの「とまれ」の形が特殊であることに理由があった。どうしてかここの「とまれ」は、なんと説明したらよいか分からないのだが、「れ」の二画目のジェットコースターで下るときに似た部分が直線でなく右側に丸みを帯びていて、最後に少し跳ねる部分が擦れて消えてしまっているため、「とまわ」に見えた。それがなんとも間抜けで、だけれどもその「とまわ」と書かれたのを見ていると、寂しい気分が消え、止まるな、と誰かに言われているような気さえしてきて勇気が出るのだった。こんなところで立ち止まっている場合じゃない。と、白線に背中を押されているように思えた。「とまわ」は、私にとってお気に入りの場所だった。引っ越したらこれを見ることもなくなってしまうのだろうな。といった感慨深げな目をして立ち尽くしていると、話しかけてくる女があった。
「あの、これ、すごくいいですよね、とまわ、って」
「あ、はい。これ、ですよね。わ、ですよねこれ」
 ふいに話しかけられて驚き、変な応対をしてしまったが、女はにっこりと笑って、
「これを見てると、なんだか元気が出るんですよ、わたし」
「あ、実は僕も、そうなんです。とまわ、に元気もらってて」
 と言ってから、私と女は顔を見合わして笑った。女の笑った顔が可愛らしくて、とても良かった。
「実は私、嫌なことがあって落ち込んでたんです。でもやっぱりこれ見てたら、立ち止まってる場合じゃないな、って。それに私と同じことを思っている人がいたのが嬉しくて、嫌なことなんて忘れちゃいました」
 にこやかに笑って語る女の目に、涙を流した跡があった。理由を訊くことはできなかった。
 その後、何気なく二人で連れ立って歩くことになり、話しているうちに自分たちが近くに住んでいることが分かった。途中、「じゃあ僕はこっちなんで」と何度か言って道を曲がろうとする度、「あ、わたしもそっちなんです」と女が付いてきて、というやり取りを経るうちに、とうとうアパートの前に辿り着いてしまったのだった。そして二人が隣に住んでいることが分かる。女はダム子だった。

ダム子

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