テーマ:ご当地物語 / 神保町

珈琲奇譚

この作品を
みんなにシェア

読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

閉じる

 
 やがて春が来て、梅雨が明け、まばゆい夏の光がみなぎる頃、妻は元気な男の子を出産した。水中出産で、ラムネの栓が抜けるように「ポンと」生まれたらしい。お札のご利益かどうかは知らないが、あの日以来、妻のつわりは、「ぐっと楽になった」のだという。
 油照りの午後、炎天の交差点で信号待ちをする。アスファルトに揺らめく陽炎で、横断歩道の向こう側の人々が、蜃気楼のように見える。
あの蜃気楼のように、ホームズ氏も、古書の中から立ちのぼる、遠い記憶の残像だったのだろうか。それとも、単に歴史好きの酔狂な客に過ぎなかったのだろうか。
金貨は、彼が店に来たら返そうと、売らずにしまっておいたのだが、何かに紛れてしまい、どこを探しても出てこない。実を言うと、新しくやってきた赤ん坊に夢中になって、今の今まで、失くしたことを忘れていた。
「ねえ、聞いてる?」
という妻の声で、我に返った。ぎくりとして背を向けたままでいる私にかまわず、妻は続けた。「美味しい。コーヒーの淹れ方、本当に上達したのね」
 急に照れくさくなった私は、聞こえないふりをして、ジャズのボリュームをほんの少し上げた。

珈琲奇譚

ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8

この作品を
みんなにシェア

7月期作品のトップへ