珈琲奇譚
それを聞いた彼は、「そうですか」と微笑した。心から安堵したような、どこかに寂しさのにじむような顔で、うなずいた。「そうでしたか」
私の中に、ある直観がよぎった。「もしかして、うちの家内とお知り合いで・・・」
カランカランと盛大にドアベルが鳴った。寒風とともに、口々に喋り交わす若い女性の四人組が入ってくる。全員入り終えると、強風のせいで、バタンと音を立ててドアが閉まった。
テーブル席へ案内に立つ間、私はたしかに聞いたのだ。背後で、ホームズ氏の穏やかな声が、こう言ったのを。
「御蔭様で念願が叶いました。勘定は、ここに置いておきます」
にぎやかに注文をまくし立てる女性客に気を取られ、私は、曖昧な返事しかできなかったことを覚えている。慌ただしく注文を取り終え、急いで振り返ると、もうホームズ氏の姿はなかった。私は、鋭く入口のドアを見た。ドアが開いた気配はなく、ベルが鳴ったようにも思えなかった。
オーダー帳とボールペンを手に、ぽかんと立ちすくんでいると、視界の端で何かが動いた。よく見ると、いつのまに三階から降りてきた妻が、厨房で洗い物をしているではないか。化粧をして、エプロンをつけている。
「おいおい」私は目を丸くして駆け寄った。「だめだよ、無理をしちゃあ」
「今日は気分がいいから、少しだけ店に出るわ」と妻は言った。テーブル席を指してにっこりし、「お客さんも入っているようだし。ね、少し動かせて」
たしかに、ここ最近蒼白だった彼女の頬は、ほんのり赤みがさし、いつになくスッキリした目をしている。
「少しだけだぞ」と、小声で強く念を押した。「すぐに帰すからな」
ハイハイ、と笑顔で受け流す彼女の袖を引き留めて、私は尋ねた。「ここに座っていたお客さん、もう帰った?」
「お客さん?」妻はきょとんとした。「帰ったと思うわ。見ていないから。どうして?」
「話の途中だったんだよ」と、あたりを見回しながら私は言った。「帰っちゃったか・・・」
「それより」そう言って、妻はちょいと私の肩をつついた。「使い終えたマキネッタは、ちゃんと流しに置くこと」
私は肩をすくめ、すみません、と頭をさげた。それから、ステンレスの棚にマグネットでオーダーを留めた。手早く皿を並べながら、「そうだ」と思い出した。「カウンターのお客さん、勘定をここに置いておくって言っていた」
わかったわ、とうなずいて、妻は台拭きを手にとった。カウンターにまわったとたん、彼女は素っ頓狂な声を出した。
珈琲奇譚