テーマ:ご当地物語 / 神保町

珈琲奇譚

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「本当は、もっと美味しいコーヒーを淹れて差し上げることができたのですが。ちょうど今、バリスタが、長期の休みをとっているものですから」
彼は、心配そうに顔を曇らせた。「御病気か何かで?」
「いえ、ちょっと・・・その、妊娠したばかりでして。体調が落ち着くまでは、お休みをいただいているんです」
「ははあ。さては、バリスタなる方は、細君ですね」カップを持ったまま、からかうように彼は笑った。「ならば、養生なさるのが第一。母体の自愛は、一等大切です」
「ありがとうございます」と言いつつ、自信の無さから、反射的に謝ってしまった。「すみません」
「なぜ謝るのです」彼は、心外だという顔をした。「味は上々吉です。世辞などではありません」それから、手にしている水色のカップを眺め、ゆっくりと落ち着いた声で言った。「私にはわかります。心を込めて淹れてくだすったのですね」
 時おり吹き付ける烈風で、窓が、ガタガタ大きな音を立てていた。
「満州では―――」
 と、窓の方を見ながら彼は言った。「厳冬期には、零下三十度にまで気温が下がります。朝目を覚ますと、卓子の水差しが、霜を噴いて凍りついているのです。実に苛酷な風土です」
「満州ですか・・・」どこかで聞いたことがある地名だ、と思いつつも、私にはそれがどこなのかわからなかった。
「大陸の東北部です。北海道とほぼ同緯度に当たります」と補足してからコーヒーを飲み干し、彼は笑顔で人差し指を一本立てた。
「お代わりですね」少しホッとした思いで、私は再びコーヒーを淹れる準備にとりかかった。うまいと言ってくれたのは、あながち社交辞令ではなかったみたいだ。
ホームズ氏は、にこにこしながら顎をさすっている。
「私は、芝高輪の産です。温順な品川沖で育った人間にしてみれば、向こうは何しろ酷寒だ。それで、体を温めるための強い酒が必需品なんです。国柄が茶の文化ですから、良質な茶も豊富にある。しかし珈琲は、皇族でもない限り手に入らない」と言って、彼は首を横に振った。
「満州へは、お仕事で?」
「そうです。鉄道の仕事です」と、彼は言った。「といっても、所属は調査部ですから、いわゆる文官畑ですが」そう付け加え、彼はまた窓の方を見た。
「大陸の吹雪は、方向を奪います。いったん始まると、一面真っ白になって、我が腕さえ見えわからなくなる。自分が進んでいるのか、転んでいるのかどうかさえわからない。猛吹雪の中、空白になってゆく頭の片隅で、私はたしかに願ったのです。もう一度、神保町で、熱い珈琲が飲めたら、とね」

珈琲奇譚

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