テーマ:ご当地物語 / 神保町

珈琲奇譚

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忘れられない客がいる。

 神田神保町の細い路地裏に、夫婦で小さなイタリア食堂を開いた翌年のことだ。
秋も深まるころ、妻の妊娠がわかった。初めての子どもだ。
二人で大喜びしたまではよかったが、思いのほか、彼女のつわりがひどく重かった。
 私たち夫婦は、かつて同じレストランで修業したシェフ仲間だ。戦場同然の厨房で、早朝から夜中まで共に闘った戦友でもある。荒っぽい男たちに囲まれる紅一点でありながら、妻は弱音を口にしたことがなかった。その彼女が、調理場の匂いを嗅ぐなり降参したのを見て、私は胸を痛めた。よほどのことだ。一方で、まいったな・・・というのも、正直な気持ちだった。
 料理やサービスでは、妻にひけをとらない自負がある。しかし、コーヒーだけは、とても及ばないのだ。イタリア製の直火式マキネッタで、一杯ずつじっくりと淹れる彼女のコーヒーは、唸るほどにうまい。妻自身、シェフである以上に、バリスタという仕事に情熱を持っているようだ。妻の淹れるコーヒー目当てで店に足を運んでくれるお客さんも少なくない。駆け出したばかりで、まだ足元がおぼつかないこの店の看板のひとつだった。それがいまや、彼女にとっては「コーヒーの香りが一番こたえる」らしい。
 私たちは、古い小さな雑居ビルの一階を店舗、二階と三階を居住スペースとして暮らしていた。しかし、「調理場のにおいがする」と妻が泣き、二階にあった寝室を三階に引き上げた。
この店の店員は、私たち夫婦だけだ。「アルバイトを雇わないと」と、彼女はすまなそうに勧めてくれたが、店の経営はまだまだ安定したとは言い難く、私一人で切り回すことにした。食堂とはいえ、元は立ち飲み屋の居抜き物件なので、十五人も入ればいっぱいになる。七、八割はカウンター客だから、大車輪で働けば、一人でもなんとかさばくことができるはずだ。
 十一月下旬、曇天の日だったと記憶している。
午後三時、カランカランとドアベルが鳴って、最後のランチ客が店を出た。入れ違いに吹き込んでくる寒気に、ぶるっと胴震いをし、厨房の隅で賄い飯をかき込んだ。
コックコートの膝に、かすかな震えがあった。早朝の仕入れからすでに十時間、働き詰めなのだ。――よし。これから、夜の仕込みだ。気分を切り替えて、洗い場に立とうと振り返った瞬間、彼と目があった。
 ぎょっとして、思わず「いらっしゃいませ」と言う声が上ずった。
 カウンターに、一人の男性客が座っていた。

珈琲奇譚

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