テーマ:ご当地物語 / 神保町

珈琲奇譚

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「値打ちのある決意です」
私の話にうなずいていたホームズ氏は、みるみる生気をみなぎらせ、身を乗り出すように言った。「ほら、この町は、時代と時代が交錯するような、一種の郷愁があるでしょう。路地沿いに軒をそろえる、書店の連なり。ほの暗い書棚に息づく、古書のにおい。武家屋敷の遺風あり、高下駄でゆく書生たちの闊歩あり。江戸の趣と西洋風のモダンが相まって、独特の滋味を醸している。銀座通りの軽薄なハイカラとは、まるで別物です。世間の軍配は銀座や日本橋に上がるのでしょうが、私は断然、神保町贔屓ですよ」
力強く言い切った彼は、コーヒーに少しだけクリームを垂らした。「この町のいいところは、それだけじゃありません」カップの中身をスプーンでかき混ぜながら、彼はくすくす笑った。
「令嬢と落ち逢う際、古書を片手に現われれば、しごく知的な青年に見えるでしょう」
話の内容がだいぶ時代錯誤な気がしたが、「なるほど」と私は言った。
後から考えれば少々奇妙なことも、目の前に本人がいると、案外適応してしまうものだ。私は考えた。ホームズ氏は、きっと歴史好きなのだろう。「神保町での待ち合わせは、作戦でもあったわけですね」
「的中です。大成功でした」と彼は言った。
笑ってコーヒーを飲んでしまうと、彼は静かにカップを置いた。その途端、火が消えるように、彼の顔からすうっと笑顔が消えた。空になったコーヒーカップの中を、じっと見つめている。
「あの日――」さっきとは打って変わった重々しい声で、彼は言った。「あの日私は、奉天から大連へ向かっていました――日本へ戻る途上だったのです」
私は、ワイングラスを磨く手を止めた。
うつむく彼の顔には、険しい表情が浮かんでいる。KO負けしたボクサーみたいだ。急に、どうしたというのだろう? 何かまずいことでも言ってしまっただろうか。彼は、カップの底を凝視している。浮かんでは消える難解な外国語を翻訳するかのように、切れぎれに彼は言った。
「吹雪で、列車が事故に――大連にたどりつかなければ――大連で船に乗らなければならないのに――東京で待っている、身重の家内を一人残して――私だけが先に――」
 ホームズ氏は、ゆっくりと顔を上げた。それから、まっすぐな瞳で、こう言った。
「細君は今も、本がお好きですか」
 ずいぶん唐突な質問だった。「あ、ええ」と、うろたえながら私は答えた。「本好きは変わりませんね。今は、体調のせいであまり読めないようですが」

珈琲奇譚

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